空の境界(下) 奈須きのこ https://itazuraneko.neocities.org/shousetu/b/%E5%A5%88%E9%A0%88%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%81%93_%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%A2%83%E7%95%8C/%E5%A5%88%E9%A0%88%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%81%93_%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%A2%83%E7%95%8C3%E4%B8%8B/images/00001.jpeg Contents 6/Oblivion Recorder-Kurogiri Satsuki Ryougi Shiki 7/Murder Study (After) Shirazumi Lio 空の境界 空の境界(下) https://itazuraneko.neocities.org/shousetu/b/%E5%A5%88%E9%A0%88%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%81%93_%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%A2%83%E7%95%8C/%E5%A5%88%E9%A0%88%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%81%93_%E7%A9%BA%E3%81%AE%E5%A2%83%E7%95%8C3%E4%B8%8B/images/00000.jpeg Deep in the forest on a foggy day. 霧の深い日は森の奥。 The smell of green and sounds of bugs, 緑のにおいとムシの声。 I walk farther and farther. ずっと遠くへ歩いてく。 Farther and farther away ずっと遠くに歩いてく。 In a sunless meadow お日さまのない草原で、 I met the beautiful children キレイな仔たちに出会ったよ。 It's time for lunch, そろそろお昼になったから、 Now I have to go back... もうじきお家に帰らなきゃ。 "You don't have to leave. This is the beginning of Eternity." 「帰る必要なんかない。ここはずっとエイエンだ」 The little ones started to sing. こどもたちは唄いだす。 But, what is eternity? でも、エイエンってなんなんだろう。 "That which will remain forever" 「それは、ずっと残っていて」 "That which will never change" 「それは、ずっと変わらない」 A chorus of cradles 揺籃の合唱。 A grassy hill bathed in starlight 星明かりの草の丘。 Milky fog disappears from sight, ミルクみたいな霧がとけだして、 And the way back home melts away. 消えていく帰り道。 I don't know what eternity is. エイエンなんてわからない。 I have to go back... I have to... 早くお家に帰らなくっちゃ。 My home is far away ずっと遠くがぼくの家。 Slipping farther and farther away ずっと遠くにぼくの家。 The smell of green and sounds of bugs, 緑のにおいとムシの声。 Deep in the forest on a foggy day. キリの深い日は森の奥。 I am sure, that I won't return from eternity. きっと、永遠に帰れない。 /Oblivion Recorder Oblivion Recorder/1  あまり寒くなかった十二月が終わって、わたしは十六回目の新年を迎えた。  新年あけましておめでとうございます、という言葉に代表されるお正月のあったかさは、何度経験しても飽きる事のない愉たのしみだと思う。  だっていうのに、わたしはお正月を楽しむ事が出来ないでいた。  ああ、もう、自分でもなんなんだちくしょー、と思うぐらい楽しめない。むしろお正月に関する記憶だけ切り捨てようか、と真剣に悩んでいる始末だけど、そんなふうに人の心は便利にできていないので問題はちっとも解決しない。  部屋にいてもブルーな気分が晴れるわけでもなく、わたしは枕を投げつけたり枕に踵かかと落としをしたりする不毛な八つ当たりを我慢して、橙とう子こ師の事務所に出かける事にした。  うちの家は中流故ゆえか、こういう季節限定のイベントにはきっちりかっちり対応する。わたしにだって初はつ詣もうでに着ていくための晴れ着が用意されていたけれど、和服なんて着たくもないのでいつものままの普段着で出かける事にした。 「あら。鮮あざ花かちゃん、お出かけ?」 「はい。お世話になっている方へ挨あい拶さつに。夕方までには帰ってきますから」  笑顔で言って、わたしは黒こく桐とう家を後にした。  一月一日のお昼すぎ。見上げる空は曇くもり模様。  それはどこか今の気分を代弁してくれているような気がして、わたしの足取りはちょっとだけ軽くなった。  そもそも、わたしだってお正月は好きだった。  それが憎むべきものに変わったのは、忘れもしない三年前の一月一日。九六年を迎えたその日、わたしは田舎いなかにある親戚の家から実家に戻ってきていた。  ……わたしこと黒桐鮮花は体が弱い。学校の体育の授業ではA以下の評価は受けたことがないが、とにかく世間さまではそういう事になっている。  わたしには都会の空気は合わない、という理由で田舎にある叔お父じの家に預けられたのが十歳のころ。それから夏休みや冬休みの数日間だけは帰省していたのだが、それだって本当はしたくなかったのだ。  わたしは自分自身の目的のため、黒桐鮮花を養女にしたいという叔父の提案を受け入れて、本格的に田舎で暮らす事となった。体が弱いという噓うそをついてまで家を離れた原因は、兄である黒桐幹みき也やにある。  そう、告白するのなら。  わたしは、なぜだかあの冴さえない兄が好きだった。困った事に兄きよう妹だいの好きではなく、人間としての愛情の類たぐいであるから始末がわるい。  当時のわたしはまだ小学校中学年のこどもだったけれど、自分でも自分の精神年齢が平均より高い事を意識していた。人並み以上の容姿とか学力とかのせいなのか、それとも生まれついて冷めていたのかはわからない。思えば、そんなものは錯覚だったのかもしれない。  けど、幹也に対する感情だけは本物だった。  好きだとか、一緒にいたいとか、そういったレベルの感情じゃなかった。自分のものにしたい、できるのなら閉じこめて誰の目にも触れさせたくない、とまで思い詰めたぐらい本気だった。  ううん、今も本気なんだけど、大人になってみると子供の頃みたいな体当たりが出来なくなってしまうんだ。もともと声にだせる恋れん慕ぼでもないから、今は大人しく反撃のチャンスをうかがう事にしている。  ……反撃。そう、反撃だ。  わたしが田舎に引っ越したのは、ひとえに幹也と離れるためだ。だってあれ以上一緒にいたら、きっとわたしは妹と認識されてしまう。戸籍上の事実なんてどうでもいい。ただ、幹也が無意識下でわたしを妹と決め付けてしまうのだけはまずかった。だから仮病まで使って実家を後にした。あとは幹也が妹としてのわたしを忘れた頃、さっそうと帰ってくればいい。  そうして、わたしはこれ以上ないってぐらいの淑女になろうと日々を過ごした。やっぱり惚ほれるよりは惚れさせたい。幹也の好みはちゃんと分かっているんだから、そんなのは割わり箸ばしを折るぐらいに簡単だろう。  ───ほら、計画はやっぱり完璧。  だっていうのに、とんでもない邪魔者が現れやがった。  ……もとい、現れていた。  それは三年前のお正月にまで遡さかのぼる。  中学生になってようやく愛を語れる年齢になったわたしは、ただの様子見で実家に帰ってきた。その時に、あろうことか、幹也のヤツはうちに高校のクラスメイトを連れてきた。  両りよう儀ぎ式しき、という名前をしたその女と幹也が付き合っているのは明白だった。  とんびにあぶらげってこういうこと。まさか、こんな飄ひよう々ひようとした男と付き合う女がいるなんて、わたしは思ってもいなかった。だってそうでしょう? そんなの、趣味が悪すぎるってもんなんだから!  ともかく、その日はあまりのショックで目の前が真っ白になって、わたしは放心状態で田舎へと引き返したのだ。  それからどうしようか悩んでいた時、両儀式の悲報が届けられた。彼女は交通事故という不幸に遭あい、幹也は一人に戻ったという。  その時は、まあ、少しは式にだって同情したよ。一度だけしか会わなかったけれど、楽しそうに笑っていたのを覚えていたから。  けど、それでわたしは安心した。式みたいな物好きは二度と出てこないだろう。わたしは順調に高校を卒業して、向こうの大学に行けばいい。そうすれば、あとは押しの一手だ。八年近くの年月が経たっていれば妹も何もなかろうよ。  ……とまあそうして、わたしは満足げに叔父の家のテラスで紅茶を口にしてほくそ笑んだりしたものだ。  だっていうのに、敵もさるもの。式のやつ、去年の夏に意識を取り戻した。幹也はわざわざ電話でその事を伝えてくれて、わたしは決心した。  もはや高校を卒業するまで、なんて事は言ってられない。わたしは、わたしに素直になるって決めたんだ。そうなると行動は早かった。すぐに都心で名門、それも全寮制の高校を探しだし、転入手続きをとったのだ。  幸い叔父は父とは違って名の売れた画家であり、わたしは成績優秀で非の打ち所のないお嬢様な外見である。入学するには本人の成績より両親の資産が重要、という礼れい園えん女学院にもすんなり転入できた。  それから半年が経って、わたしは嫌いになってしまったお正月を迎えている。  今日だって本当は幹也と初詣に行く予定だったのに、昨日の夜に式がやってきて幹也をさらっていってしまった。  ……ほんとうに。  事態は、一刻の猶ゆう予よもなさげな状況だったりするわけなのだ。 ◇  わたしの魔術の師である蒼あお崎ざき橙子の工房は、工場地帯の真ん中にある。  一見して作りかけで放置された廃ビルなのだが、中にはきちんとした事務所なんかもかまえているおかしな建物だ。  一階は車庫になっていて、二階と三階は不明、四階が幹也の通う事務所になっている。兄の通う会社の所長は、転じて、わたしの師でもあるというわけだ。 「新年、あけましておめでとうございます」 「はい、おめでとう」  事務所に入るなり挨拶をすると、橙子師はけだるい顔つきで相づちをうってきた。  蒼崎橙子は二十代後半の女性で、凜り々りしいタイプの美人だった。  所長としての訓示や、職場にいる時は遊びのないスーツ姿で、今日は眼鏡めがねを外しているから余計にキリッとしている。 「なんだ鮮花。今日は黒桐と出かけるんじゃなかったのか」  所長席に座ったまま、橙子師は分かり切った質問を向けてきた。 「式がやってきて、連れていかれました。自分から講義を欠席するといって何ですが、予定を戻してかまわないでしょうか?」 「ちょうどいいね。鮮花に話すことが出来たところだし」  ……? 橙子師からわたし宛てに話があるなんて、珍しい。  わたしは彼女にコーヒーを、自分に日本茶を淹いれて、自分の椅子に腰をおろした。 「それで、話って何ですか?」 「ああ、鮮花は黒桐に告白したのかな、と疑問に思ってね」  まったく、これっぽっちも本気でない質問を師は口にした。 「していません。兄には気付かせてもいないつもりですけど、なにか?」 「───つまらん。黒桐あたりなら目に見えてうろたえるのに、おまえときたら眉一つ動かさずに即答する。兄妹でここまで違うというのも珍しいぞ。本当に兄妹なのかと不審に思う事はないか、鮮花?」 「本当に兄妹でなければ、問題なんかないです」  内心で拗すねながら答えると、橙子師は軽い笑い声をあげた。 「いや、おまえは本当に純真だよ。すまないな、今のはつまらない質問だった。私も、年に一度ぐらいは失言をするらしい。許せ」 「年に一度の失言をお正月に使ってしまうなんて、すごいスタートダッシュですね。それで、話って何でしょうか」 「おまえの学園の事だよ。鮮花は私立礼れい園えん女学院の一年生だったな。一年四組の事件について、聞いていないか?」  一年四組? それは、もしかすると──── 「橘たちばな佳か織おりさんがいたクラスですね。わたしはAクラスですからDクラスの事は詳しくはありませんけど」 「タチバナ、カオリ? 誰だそれは。そんな名前はリストにないが」  橙子師は不愉快そうに顔をしかめる。  わたしも同じように首をかしげた。  どうやら、わたしと橙子師の間には大きな齟そ齬ごがあるみたいだ。 「……あの、何の話でしょうか?」 「そうか、鮮花は知らないのか。そうだな、クラスが違うのでは話題にはならないか。礼園はクラス別に隔離されたシステムらしいからな、あの話は四組の生徒しか知らないという事になる」  ひとりで納得して、橙子師は事の詳細を語りだした。  事の始まりは二週間前。冬休みを直前にひかえた礼園女学院高等部一年四組の教室で、ふたりの生徒が口論の末に相手をカッターで切ったというのだ。  ……礼園という、閉鎖されたあの異世界で傷害事件が起こるなんて、にわかには信じられない。  礼園は一度入学すれば、よほどの特権でもないかぎり外に出れない収容所のような学園だ。だから中の空気は噓のように静かで、止まっている。暴力沙ざ汰たなんて起こりえようのない、病的なまでに洗浄された世界なのに。 「───それで、怪け我がの具合はどうなんですか」 「怪我自体はたいした事じゃない。問題はもっと別のところだ。二人の生徒は二人とも傷を負った。この意味がわかるか、鮮花」 「……口論の末、ふたりがふたりとも同時に相手に切りつけた、という事ですね。両名の口論に優劣はなく、話は平行線のままふたりとも同じ結論に達した、と」 「そうだ。口論の内容は、また後で話す。問題はまだ続いてね。この事故は、すぐには報告されなかった。冬休みにはいって学長マザーが保健室の記録を調べたところ、怪我をした両名の記録があったから発覚した事故だ。四組の担任は、その事故を意図的に隠いん蔽ぺいしたことになる」  四組───Dクラスの担任は葉は山やま英ひで雄おという、礼園に二人いる男性教諭の一人だ。けれど彼は十一月の学生寮の火事の後、責任をとらされて姿を消した。彼の代わりはシスターじゃなくて、たしか……… 「玄くろ霧ぎり先生は、そういう人ではないと思いますが」  つい、わたしはそんな事を口にしていた。  橙子師はああ、と頷く。 「マザーもそう言っている。一年四組の担任についた玄霧という教師はよほど信頼が厚いんだろうね。マザーが彼を問い詰めたところ、玄霧皐さ月つきはその事故を覚えていなかったらしい。マザーに指摘されて、突然に思い出したというんだ。なんとも胡う散さん臭くさい話だが、マザー曰く芝居でもなんでもなく、本当に玄霧皐月は忘れていたようなんだよ」  ……そんな事、ありえるのだろうか。  二週間前の出来事を綺き麗れいさっぱり忘れるなんて事はありえない。けれど……もしかして、玄霧先生ならそういうのもアリかな、とかわたしは思ってしまった。 「話は戻るんだが、生徒たちの口論の内容だ。二人の生徒は放課後、他の生徒たちがいる中で口論をはじめた。その会話をほかの生徒が聞いていたんだが、なんでも自分の秘密をばらされたらしい。それがまた、特殊なケースの秘密でね。本人が忘れていた秘密をばらされた、というんだ」 「───え?」 「だから、本人が忘れていて思い出しもしない子供の頃の秘密を、相手にばらされたというんだよ。話によると彼女には一ヵ月近く、本人さえ忘れていた出来事が手紙で送られてきていたという。初めは手紙の内容が理解できない。けれど読んでいくうちに、それが自分の事だと思い出してゾッとしたとのことだ。気味が悪くなって友人を問い詰めたところ、その友人も同じように手紙が送られてきているという。この二人の生徒は幼なじみでね、自分が忘れた事を覚えているといったら、それは子供の頃からの友人である相方しかいないと思ったらしい。二人の生徒は互いが犯人だと思い込んで、同時にカッターで切りあったというワケさ」  わたしはしばし絶句した。  本人さえ忘れている記憶が、手紙になって送られてくる? 本人さえ知らないはずの秘密を、どこかの誰かが手紙で送りつけてくるというのか。 「新あら手ての脅迫でしょうか、橙子さん」 「いや。手紙には忘れていた過去の出来事しか書かれていないというんだ。別に脅しているわけでもない。ストーカーのように四六時中監視していようとも、過去、しかも本人さえ忘れているような出来事を知る事はできまい。不ぶ気き味みといえば、まあ、不気味な話だね」  不気味どころの話ではないと思う。  初めは面白がって手紙を読むかもしれないが、それが一ヵ月も続いたとしたらどうだろう。自分の知らない事を自分ではない誰かが知っているのだ。一日一日と正体不明の監視者の手紙を読むたびに、彼女達の精神は追い詰められていたことだろう。  ……カッターで切りあう、というのはむしろ軽くすんだ結末なのかもしれない。 「橙子さん。その、手紙の主は見つかっているんですか?」 「ああ。犯人は妖精だとさ」  きっぱりと橙子師は言う。  わたしは驚きで声をあげかけた。 「───すみません。もう一度お願いします」 「だから妖精だよ。なんだ、この話も鮮花は聞いてないのか。礼園には霊感の強い女が集まるのかな、目撃例も多いという話だ。鮮花の目は霊体に焦点が合わないから見えないだろうが、寮生のあいだでは有名らしいぞ。夜、枕元に妖精が飛んでくる。目覚めると過去数日の記憶がぽっかり抜け落ちているそうだ。記憶を採集するのは妖精の仕事みたいなものだから、おそらく間違いはないだろう。一年四組の事件と妖精の話は繫つながっていると考えるのが妥当だな」  橙子師は淡々と語る。わたしは、この人の下で魔術を習っているというのに、その話をまったく信じられなかった。 「橙子さんは信じているんですか、妖精の話を」 「見てみない事にはなんとも言えんが、礼園なら妖精ぐらい居るだろう。あそこにはそういう雰ふん囲い気きだけは備わっているからな。あの学園は世上とは隔離され、敷地内には車の音さえ届かない。あそこを支配するのは厳おごそかな校則と物静かなシスター達であり、少年少女を熱狂させる流は行やりものは侵入できない。敷地内の大部分をしめる林は森ほどの深さがあり、迷いこめば半日は外に出れないだろう。空気はどこか飴のような甘さを含み、時計の針は老婆の編み物のようにゆったりと進んでいく。ほら、都心に佇たたずむ妖精郷そのものじゃないか」 「よくご存じで。まるで学園を知っているような口振りですね、橙子さん」 「そりゃあ知ってるさ。私はあそこのOGだもの」  ───今度こそ。わたしは、驚きの声をあげた。 「なんだその目は。そもそもマザー・リーズバイフェが部外者に学園の恥部を相談すると思うのか。昨日の夜、学長から原因の究明をしてほしいと依頼をうけた。私の所は探偵屋ではないが、他ならぬマザーの頼みでは断れない。かといって私が学園に乗り込むのは目立ちすぎる。どうしたものかと思案していたのだが。───鮮花」  聞きたくありません、とわたしはそっぽを向く。  橙子師は感情のない瞳でわたしを見据えると、唐突に話題を変えた。 「じゃあ。妖精と聞いて、鮮花は何を連想する?」 「───妖精、ですか。その、小さな女の子に翅はねがついているとか」  自信なさげに答えると、橙子師は夢があって結構、なんて含み笑いをした。 「妖精といっても種類は様々だから、そういうものもいるかもしれない。ただし、それは魔術師が作り上げた使い魔としての妖精だ。妖精は悪魔などと違ってモノの想念が集まってカタチをなした実像幻想ではなく、れっきとした生物の系統樹に連なるものだ。生物学的に生存が不可能な身体構造はしていない。小ゴブ鬼リンとか赤帽子レツドキヤツプとかが、ある意味純粋な妖精という事になる。  妖精や龍に代表される幻想種。日本では生きつ粋すいの鬼がこれに該当するが、彼らはたびたび私達と接触をはかってきた。彼らは悪魔達のような、人間の願いによって生み出され願いによって呼び出される受動的なものではない。あくまで能動的な存在だ。  スコットランドあたりでは妖精の悪いた戯ずらが今でも行なわれているという話だが、その悪戯の中に人間に物忘れをさせる、というものがある。  あとは子供を森に引き込んで一週間ほど帰さなかったり、生まれた赤子を妖精の子と取り替えたり、家の玄関に兎うさぎの死体をばらまいたり、と実に子供の悪戯のレベルを抜けない微笑ほほえましい物ばかりだな。  まったく統一性のない彼らの悪戯には、けれど共通点が一つだけある。妖精達にはね、損得感情というものがないんだ。彼らは単に楽しいからやっているだけで、その後に何かを求める事はありえない。だが礼園のケースは違う。奪った記憶を手紙にする、というのはどうも悪意が感じられるだろう? くわえて礼園に現れる妖精というのは、鮮花が言ったとおりの可か愛わいらしい外見をしているそうだ」  ……なるほど。さすがは橙子師、こういう搦からめ手でくるとは思っていなかった。  くやしいなぁ。  わたしは、わたしのプライドのために、その先を自分から口にしてしまうんだ。 「つまり、礼園女学院に現れる妖精というのは作られたモノ、使い魔。悪意がある以上、それを操る魔術師もまた存在する、ということですね」  そうそう、と橙子師は嬉うれしそうに頷うなずいた。 「使い魔に関しては以前説明したな。魔術師が自らの肉体の一部を提供してつくりあげた分身としての使い魔と、ほかの生物を前身にして作り変える手足としての使い魔。今回のは手足として使役される使い魔に違いない。人の記憶を盗むだけの単一性能だ。やる事が子供じみていて、つまらん」  ……その、つまらない事の始末を押しつけられるわたしの気持ちも考えず師は続ける。 「まあ、それも仕方のない事か。妖精の使い方は難しい。術者はいつのまにか彼らに要望を叶かなえさせるのではなく、彼らの要望を叶えさせられている場合が多いんだ。連中はわがままな注文ばかりするからな。故ゆえに、昔から妖精を使い魔にしようなどという魔術師は少ない。いたとしたらそいつは一流の腕前だ。だが今回のは違う。妖精に似せた使い魔を使っているだけの未熟者だろうから、修業にはもってこいだ。そういうわけで、鮮花。師として命じる。目的は真相の究明。期間は冬休みが終わるまで。原因の排除までは望まないが、できるのならやってしまえ」  ……やっぱりこういう結果になるんだ。  わたしは半ばヤケになって、努めて冷静に頷いた。 「───修業の一環なら、仕方ありません」  それじゃあ詳しい資料をあげよう、と橙子師は席を立つ。けれどその前に、わたしはただ一つの不安を口にした。 「ですが、橙子さん。わたしは妖精なんて見えません。師のように魔眼なんてもってはいませんし」  わたしの問いに、橙子師はにやりと笑った。  それは今まで感じた事のない、キックをいれてやりたいぐらい不吉な笑みだったと思う。 「ああ、それなら大丈夫だ。目の代わりはしっかり考えてあるさ」  師はくすくすと忍び笑いをして、その内容を語ってはくれなかった。 Oblivion Recorder/2  礼園女学院高等部の職員室を、わたしと彼女は後にした。 ◇ 「オレ、前から思ってた。トウコって実はあったま悪いんじゃないかって」  一月四日、月曜日、曇り模様のお昼すぎ。  わたしの横で、わたしの〝目の代わり〟が憎にく々にくしげに呟つぶやいた。わたしはこいつが敵である事を棚の上に置いておいて、噓偽いつわりない本心で同意する。 「そうね。よりにもよってあんたを学園内に潜り込ませるなんて、正気の沙汰とは思えないわ」 「ひどいな。今回の犠ぎ牲せい者は間違いなくオレだぜ、きっと。転校する予定なんてありもしないのに、三学期から転入する芝居までさせられてる」  わたし達は高等部校舎の廊下を歩きながら、お互いの顔を見ずに話をする。  ……今、わたしの傍かたわらにいるのは両儀式という名の少女だ。  礼園女学院の制服は、そのままミサに出れるように尼に僧そう服に近いデザインをしている。黒い礼服に生徒らしい機能性を混ぜ合わせたもので、あまり日本人には似合わない制服だ。  だというのに、両儀式は普段着のように違和感なく着こなしていた。  彼女の黒髪は制服の色より深くて、身体を覆う黒に溶け込んでいない。細い肩と首筋がやけに白く見えて、わたしでもどきりとするほど印象的だ。  式は年上のくせに、なぜだか若々しく映る。  身長だってわたしとあんまり違わないのに、その姿はしゃんとしていて、立派に物静かなクリスチャンの少女に擬ぎ態たいしていた。  ………なんだか、すごくおもしろくない。 「鮮花。あそこの二人組、こっちを見てる」  たった今すれ違った上級生を眺ながめる式。  こちらを観察している生徒達が何を話しているか、わたしは容易に想像できた。……礼園は女子校だから、生徒間での好き嫌いに男性という要素は含まれない。それでもやっぱり彼女達は男子像というものに憧あこがれているわけで、中性的な美人は学年を問わずに人気がある。  礼園にはそういったタイプの人は少なくて、式なんかが本当に入ってきたら間違いなくアイドルになるだろう。すれ違う生徒達はどこか男性的な凜々しさのある式の横顔を見て、そういう期待でおしゃべりをしているのだと思う。 「たんに転入生がめずらしいだけよ。今回の事件には関係ないでしょ」 「ふぅん。冬休みだっていうのに生徒はいるんだ」 「うちは全寮制だから、寮に残りたいっていう生徒はわりと多いの。校舎は図書室のある一階と四階だけ開放してるけど、寮のもので代用が利きくから校舎まで来る人は少ないわ。校則違反でシスターに呼びつけられるのなら話は別だけど」  そのシスターの呼びつけも三度続けば退学だ。  実をいえば、わたしも数回にわたってシスターの呼びつけをうけている。  どのような理由があろうとも、この学園では外に出る事は許されない。両親に会いにいく、という理由でさえ認められないのだ。礼園に入学するという事はそういう事で、保護者達もその徹底した管理体制を期待して入学させる。  わたしや、友人である藤ふじ乃のあたりが何度も外出届を出しても退学にならないのはそれぞれの事情がある。  藤乃は、お父さまがこの学園の寄付金の三割をしめるというお金持ちなので退学にはならない。というか、させてくれないらしい。  わたしは……まあ、画家という叔父のネームバリューもあるのだろうけれど、ひとえに礼園の進学率稼ぎのために雇われた傭よう兵へいみたいなものなので、外出を大目に見てもらっていた。礼園だって学校である事に変わりはなく、卒業生の中に有名大学に進学した生徒がいるにこした事はない。わたしは初めからT大学を受験し、合格する事を前提にして入学を許されたようなものなのだ。  ……たしかに、勉強だけは神様に祈ってどうこうなる問題でもない。礼園の経営陣の考えは俗物的だけど、わたしにはあまり不満はなかった。そのおかげで例外的に外出が許されているわけなのだし。  そうやって一人で物思いに耽ふけっていると、傍らの式は興味なさげな気け怠だるい瞳めで校舎を観察していた。それにもすぐに飽きたようで、彼女は胸にさげられた十字架の飾りをいじったりする。 「ヘンな学校。教師がシスターなんだか、シスターが教師なんだか。そういえばさっき礼拝堂が見えたけど、あそこでミサとかやるのか? 天に召しますわれらの父よっていう、アレ」  素朴な質問を式はしてくる。  けど天に召してどうするんだ、ばかシキ。 「───礼拝儀式は朝夕にあります。ミサは日曜に一度行なわれるけど、生徒の参加が義務づけられているのは礼拝儀式だけでミサは自由参加。わたしみたいに高校から礼園に転入した人達はクリスチャンじゃないから、ミサに出た事はないわ。シスターへの印象は変わるけど、信仰は自由だから一応強制はされません。礼園は古くからあるミッションスクールだけど、数年前から良家のお嬢様育成学校になってるから基キリ督スト教に興味を持たない娘こも多いの。どんなに素行の悪い子でも礼園を卒業すれば縁談は引く手数多あまたになる。それが目的で娘を入学させる親が大半なんでしょうね。つまるところ、本当に神様を信じて入学する子は減ってきているんです。今の日本では生徒の両親だって基督教を学ばせる為に入学はさせないでしょう。……それでも、中には真正のクリスチャンもいるようですけど」 「神様、か。いるところにはいるのかもな、そういうの」  ……なんか、すごい違和感がある。  式の男口調には慣れた気でいたけど、可か憐れんな修道女としか見えない今の姿で言われると戸惑ってしまう。 「神様は不明だけど、他のものはどう? 見つかった?」  歩きながら、わたしはさりげなく訊いてみる。  式はいや、と首を横に振った。 「ぜんぜん。夜まで待つしかないかもな、この分じゃ」  眠たげな眼まな差ざしで、式はそんな事を言う。  ……この女は、普通の人間には見えないモノを見る力がある。幽霊とかは言うにおよばず、物の壊れやすい部分を見る事もできるそうだ。くわえて運動神経は抜群で、根が凶暴ときている。  はっきり言って、幹也とは正反対すぎる〝特別〟な人間だ。わたしは他のどんな相手より、幹也が式といるのは嫌。  そう、わたしが橙子師に師事するようになったのは、元はと言えばこいつが原因なのだ。幹也の相手が並の女なら一日で再起不能にしてやるのに、両儀式は並どころの騒ぎじゃなかった。  素のままじゃ太た刀ち打うちできない、と判断したわたしは自分の常識を質屋に預けて、魔術師である蒼崎橙子に弟子入りした。……残念ながらまだ実力では式には敵かなわないので、今はこうして修業の日々を過ごしている。  だっていうのに、わたしは少しフクザツな心持ちだ。  なぜなら、それは──── 「夜は鮮花の部屋で過ごすんだろ。……まあ、おまえのところなら我慢するか」  式は仕方なげにため息を漏もらして言う。  幹也の話では、式は自分が寝床と定めた場所以外では腰を下ろしもしないのだそうだ。なのに、まだ見てもいないわたしの部屋に泊まる事を我慢する、と言う。  フクザツな理由はこれで、ようするに式はわたしを嫌っていないのだ。わたしは式が嫌いなのに、これじゃあどこかちぐはぐで、やりにくい。  わたしだって───幹也のことがなければ、両儀式の人となりは好きな部類に入ると思うんだけどなぁ。  今度はわたしがため息を漏らす。  と、式はじろりとわたしを見つめてきた。 「鮮花。どこに向かってるんだ。寮に行くんじゃないのか」 「寮に用はないでしょう。とりあえず四組の担任に話を聞くから、ついてきて。あんたはわたしの目なんだから、会う人全部を識別してもらうわよ」 「───担任って、葉山ってヤツか」 「違います。葉山先生は十一月にこの学園を去ったわ。今は玄霧皐月って人が担任をしてる。ふたりとも我が校じゃ数少ない男性教員よ」 「女子校に男の教師か。他のところなら珍しくないけど、この学園で男っていうのは異常だな」  式の言う事はもっともだ。  卒業までに生徒を非の打ち所のない女性に仕上げるこの礼園において、男の教員なんていうのは邪魔者でしかありえない。せっかく不純異性交遊を防ぐため外出を禁じても、敵が内側にいるのではトロイの木馬もいいところなのだから。 「……そうね。けど、その辺は込み入った事情があるのよ。葉山英雄っていうのは、学園でも嫌われものだった。教員免許を持っているかどうかさえ怪しい人で、実際に生徒に手を出した事もあるみたい。けどシスターはおろかマザーでさえ強く注意できなかった。どうしてかっていうと、うちの理事長は今でこそ黄おう路じって名みよう字じだけど、婿むこに入る前は葉山っていう名字だったのよ」 「理事長の出来の悪い弟ってコトか。で、そいつはどうして辞めたんだ」 「十一月、わたしが橙子さんの事務所にいたの、覚えてる? あの時にも言ったけど、高等部の寮が火事にあったの。一年生と二年生のCクラス以下の宿舎である東館がほぼ全焼してね。礼園の寮は学年ごとに分かれているんだけど、さらに細かくクラスごとに管理されていて、火が出たのは一年四組のブロックだったのよ。葉山先生がさ、何を思ったのか放火したの。理事長もさすがにクビにしたけど、その頃には葉山は学園から消えていたわ」  逃げたんでしょうね、とわたしは付け足す。  あの火事の情報は外に漏れていない。消火にやってきた消防士の口も、礼園に在学する生徒の父兄たちが協力して押さえこんだという話だ。……大切な娘がいる学校で不祥事は出てほしくないという考えだろう。  ……人が。一人、死んでしまったというのに。 「それで、玄霧っていうのはどうなんだ?」 「玄霧先生は、問題のない人よ。というか、葉山とは正反対。礼園の生徒であの人を嫌ってる生徒はいないと思う。  玄霧先生は去年の夏からの勤務で、葉山のように後ろ盾はないって話。マザーのお墨つきがあるだけよ。うち、元をただせばイギリスにあったどこだかの名門の姉妹校なんだって。イギリスの本校はなくなってしまったけど、姉妹校である礼園はまだ残っている。マザーとしては教員は全員英国の人にしたいんでしょうけど、日本語ができる生粋のイギリス人教諭なんてそういないのよ。その点、玄霧先生は外国育ちで発音も完璧。汚らしい米国なまりがないって、シスター達も喜んでるわ」 「じゃあ、玄霧っていうのは英語の教師か」  むむ、と式は眉まゆをひそめて呟く。……もしかすると。和風びいきなこいつは、英語というものがまったくダメなのかもしれない。 「英語だけじゃないわ。たしかドイツ語とフランス語の教員免許も持ってるって。中国語もいくつかマスターしているらしいし、南米の一部族のものまで知ってるっていう……まあ、言語オタクって陰で呼ばれてるヘンな人よ。……黒桐鮮花と両儀式にとっては、違う意味で特殊な人。わたしは、その先生がすごく苦手です」  言って、わたしは立ち止まる。  一階の端にある英語の準備室。礼園では職員室は事務を執とる場所であって、各教科の準備室は教師ごとに一部屋設けられている。  玄霧先生が使用しているのは、葉山英雄が使っていた準備室だ。  わたしは式に気付かれないように小さく深呼吸をして、準備室の扉をノックした。 ◇  玄霧皐月はわたし達に背を見せて机に向かっていた。  彼の机は窓際にあり、灰色の陽射しが部屋を照らしている。準備室はその名に反して研究室のように散らかっていた。 「玄霧先生。1‐Aの黒桐鮮花です。マザーからのお話は届いているでしょうか」  わたしの声にはい、と頷いて彼は振り返る。  椅子がくるり、と回って玄霧皐月はわたし達と向かい合った。 「───────」  式の息を呑む気配がわかる。  わたしだって初めてこの教師と向かい合った時、目眩めまいを覚えたほどなんだから。 「ああ、君が黒桐君か。うん、聞いたとおりの子みたいだね。とりあえず座って。話、長くなるんだろう?」  やんわりと言って、玄霧先生は微笑む。  年齢は二十五歳ほどで、礼園の教師の中では一番若い。いかにも文系といった細い体付きと黒ぶちの眼鏡が、この人を無害な人物だと教えてくれる。 「一年四組の話かな」 「……はい。カッターで切りあったという生徒の話です」  わたしの返答に、玄霧先生は申し訳なさそうに目を細めた。それは見ているこっちが悲しくなるような、淋さみしそうな顔だった。 「力になれなくてすまないけれど、私自身、その件に関しては記憶が曖あい昧まいなんだ。詳くわしく覚えていないし、彼女達を止める事もできなかった。たしかに自分は現場にいたのにね。私は何もできなかった」  自分の無力さより、傷ついた生徒達を思って玄霧皐月は目を閉じる。  ……この人は、一緒だ。誰かの悲劇を深く考えて、しょいこむ必要のない重荷を負っている。決して他人を傷つけない、棘とげのない優しすぎる人間────。 「先生は、その、彼女達が口論をした原因をご存じですか?」  わたしは念のために聞いてみる。  玄霧皐月は、静かに首を横にふった。 「……他の生徒達の話では、私が二人を止めたという話です。けれど私にはあの日の記憶がない。うん、物忘れしやすい質たちだとよく言われてきたけど、ほんとうに記憶が抜け落ちるなんていうのは初めてだ。なにか大事な事を聞いていたとしたら、取り返しがつかない。いや、それ以前に原因は私かもしれない。私はあの日、彼女達と同じ教室にいた。それだけでも、責任を追及されるべきだ」  思い詰めた表情で先生は言う。  そこで、わたしはようやく気がついた。忘れた秘密を手紙にして送られている、というDクラスの生徒達の焦しよう燥そうは酷ひどいものだろう。けれど見えない不安に責められているのは彼女達だけじゃない。問題が起こり、その場にいたにもかかわらず何も覚えていないという玄霧先生の精神状態だって、危ういバランスを保っている筈はずなのだ。  もしわたしが彼の立場でも、きっと同じ不安を抱いただろう。記憶がない、という事はそれだけで不安になる。その間に何を手に入れたのか、何を失ったのか。確実に行なった自分の行動が分からない、というのは底のない落とし穴だ。  悪く思えば思うほど、穴は深く暗くなっていく。そんな事はない、と否定する材料さえ忘れているのだ。先生が自分が原因だと思うのは、無理のない事だろう。 「───ですが先生。1‐Dの生徒達は事のなりゆきを終始見ています。先生は止めに入っただけだという話ですが」 「違うよ黒桐君。覚えておきたまえ、自分の記憶を確認する際には、他人の記憶はアテにはならない。過去を決定するのは、やはり思い出という自身の秤はかりだけなんだ。……だから私は、やはり私が悪かったという可能性を考慮するべきだと思う。  ───いや、すまない。こんな話は無意味だったね。こんな状態の私では頼りないだろうが、質問を続けてくれないか」  無理をして微笑む彼に、わたしは頷く事で応える。 「……わかりました。では、Dクラスそのものに何か異状はありませんか? 例えば生徒全員が課題を忘れてくる、とか」 「そういう事はないよ。ただ、たしかにうちの教室は張り詰めている、とシスター達がもらしていたな。……私自身、以前の彼女達を知らないから断言はできないが、たしかに四組の教室は静かすぎると思う」 「それは、何かに怯おびえているような雰囲気でしょうか?」  予想通りの展開にわたしは確認をとる。  カッターで切りあった、という二人の生徒。彼女達の周囲にいた他の生徒達は、どうしてそこまで白熱した口論を止めなかったのか。  興味などなかったから? いや、それなら会話の内容なんて聞いているはずがない。至し極ごく当然な流れだけど、おそらく忘却した記憶を記した手紙は、一年四組の生徒全員に送られていたのだ。だから生徒達は言い争う二人を止めなかった。それで、少なくとも二人のうちどちらが手紙の差出人かはっきりするから。  ……けれど、玄霧先生の答えはわたしの推理を裏付けてはくれなかった。 「……そうだな。怯えている様子とは、違うと思うよ」 「───怯えてはいなかったんですか、みんな?」 「ああ。怯えていたというより、むしろ監視しあっていた、というのが正しい。それが何の為なのかは分からないが」  監視しあっていた────か。  ニュアンスがズレてしまったけど、発想自体に間違いはないと思う。  ようするに彼女達は敵が外ではなく内側、つまり教室の誰かだと確信している、という事なんだから。 「先生。Dクラスの生徒達と連絡はとれますか?」  とにかく、事を忘れていない当事者達に話を聞くしかない。妖精の話も、噂うわさしている本人達に聞く分にはおかしく思われないだろうし。 「連絡をとる必要はないよ。うちのクラスの生徒達は全員寮に残っているから、すぐに話はできると思う」  玄霧先生の返答は、わたしを驚かせてばかりだ。  一年四組の生徒が全員、学校に残っている? そんな偶然は必然と同じだ。 「失礼しました。またお話を伺いにあがるかもしれませんから、その時はよろしくお願いします。式、行きましょう」  わたしは傍らで無言だった式を促して立ち上がる。  その時────玄霧皐月は、きょとんとした目でわたしを見つめた。 「あの……先生、何か?」  先生は答えない。  かわりに、式が初めて声をあげた。 「式というのは私の事です、先生」  式は女性の口調でそう言った。  先生はああ、と明るい声をあげる。 「そうか、さっきからキミは居たね。見ない顔だけど、新入生かな」 「さあ、どうでしょう。校舎を見てまわって、面白ければ本当に転入してもいいとは思っています」  玄霧皐月は、そうか、と嬉しそうに頷いて、式をじっと見つめだした。まるで憧れのモデルを前にした画家のように、細かな特徴を観察する。  わたしはそれを見ているしかない。  その時。準備室の扉がノックされた。 「失礼します」と、綺麗な声がする。  準備室に入ってきたのは、髪の長い上級生だった。  凜とした切れ長の目と、背中まで伸ばされた黒い髪。  美形の多い礼園の中でも一際目立つその美人を、わたしは知っている。  というか、去年まで生徒会の会長をしていた上級生を知らないわけはない。  人を見下すような瞳と、細く長い眉毛は美貌であるより以前に、とにかく迫力がある。なんだかお城のお妃きさき様みたいな上級生は、たしか──── 「おや、黄路君。もうそんな時間になったのかな」  玄霧先生が入ってきた黄路美み沙さ夜やに声をかける。  黄路先輩はええ、と自信ありげに応えた。 「皐月先生、約束の時間を過ぎています。午後一時に生徒会室にいらしていただかなくては。時間は永遠ではないのですから、有効に使っていただかないと困ります」  堂々と胸をはって、黄路先輩は玄霧先生を非難する。  堂に入った威厳は本物で、彼女は生徒会時代から暴君で通っていたらしい。わたしが転入した頃に生徒会の引き継ぎがあったからよくは知らないけれど、藤乃の話ではシスター達でさえ黄路先輩には意見できなかったそうだ。  話によると、今の理事長も彼女には意見できないでいるらしい。  それも当然で、婿養子である現理事長と、正統な黄路家の次女である黄路美沙夜とでは発言力が違いすぎる。  ……黄路の家の子供はみんな養子だという話だが、それを引け目に感じる程度の精神力では黄路財閥の跡継ぎにはなれない。逆に養子であっても誰よりも黄路の者らしく振る舞える心の強さを求める為に、黄路家は将来有望な子供を養子にとるという。……ようするに、黄路先輩はそういう鉄の女なのだ。  ただ救いなのは、黄路美沙夜は正義の人らしい。校則を破る生徒には容赦がないが、規則を守っている生徒には面倒見のいい先輩なのだそうだ。本人も敬けい虔けんなクリスチャンで、日曜の昼ミサには毎回参加しているというし。 「黄路さんは厳しいですね。エイエンなんて、また、難しいことを」  にこりと微笑んで、玄霧先生は椅子から立ち上がる。それを黄路美沙夜は苛いら立だたしげに眺めていた。……たしかに、彼女のように規律に従って生きる人には、玄霧先生のようにゆったりとした人は癇かんに障さわるのだろう。  黄路先輩は視線だけで、貴女あなた達は? という敵意を向けてくる。これ以上ここにいては何かと面倒そうなので、さっさと退散しようと式の腕を引っ張った。 「さ、次に行こう、式」  わたし達は準備室の出口へ歩く。  と、その扉を玄霧先生が開けてくれた。それは客人を見送る執事みたいな自然さで、わたしはすみません、とお辞儀してしまう。 「いえ、私のほうこそ役にたてなくてすみません。二人とも、いい休日を」  やっぱり柔らかく微笑んで、先生はさよならを告げる。  どこか淋しい、空気のような笑顔だった。 「───先生は、いつも哀しげに笑うんですね」  いきなり、式がそんな事を言った。  先生は意外そうに目を開くと、そうですかと頷いて、 「でも、私は笑った事がないんだ。───一度もね」  淡い笑みをうかべて、玄霧先生はそう答えた。 ◇  準備室を後にして、わたし達はひとまず寮に戻る事にした。  一階の廊下を抜けて、中庭に出る。  礼園女学院の敷地は大学なみに広い。その広さをいかすためか、初等部から高等部までの校舎や体育館、学生寮はどれもこれも互いに離れている。  例えるのなら、遊園地でそれぞれのアトラクションが校舎になっている……というのが、一番嵌はまった言い方だろうか。うん、どことなく夢があるこの表現、いつか幹也に話してあげよう。  高等部の校舎から学生寮までの道のりは長い。  途中、マラソンコースである林の中を抜けるのだけど、一応上履きのまま寮まで行けるように渡り廊下が造られている。  ぎしぎしと音のなる板張りの道を、わたしと式は歩いていく。  式の様子はどこかおかしかった。それもそうだろう。あそこまで似た人間を見せられて動揺しないはずがないんだから。 「玄霧先生が幹也に似ていたから驚いたんでしょう、式」  わたしの問いに、式はああ、と素直に頷いた。 「でしょう? 幹也より先生の方がハンサムだけどね」 「そうだな、玄霧のほうが顔の造形に隙すきがない」  台詞せりふこそ違えど、わたし達の意見は同一だった。  そう、玄霧皐月という青年は黒桐幹也にそっくりなのだ。外見も似ているし、なにより雰囲気が瓜うり二つ。いや、歳をとっているせいか、全てをあるがままに受諾する自然さは玄霧先生のほうが強く感じさせる。  わたしや式のように周囲とは摩ま擦さつを起こすしかない人間にしてみると、ああいう〝誰も傷つけない〟普通の人はいるだけでショックな筈だ。  事実、わたしだって───幹也とわたしが違う人間なのだと気がついた時、わけもなく涙がでた。アレはいつの頃だったろう。もう思い出せないぐらい子供の頃、何かのきっかけでわたしは黒桐幹也がそういうひとなのだと分かったんだ。  同じ屋根の下で兄妹として暮らしていて、わたしはいつのまにか幹也を欲しいと思っていた。  兄妹でそんな事を思うのは異常だと分かっている。けど、わたしはそれを過あやまちだとは思わない。何か悔くいる事があるとすれば、それは。  その、彼を大切な物だと認識できた、始まりのきっかけが思い出せないという事だけで─── 「───でも、あの人は玄霧皐月という人です。どんなに似ていても、黒桐幹也ではないんだから」  口にしても仕方のない事をわたしは口にしてしまった。それは横で歩いている式も同じ意見なのだと思う。  けれど、頷くかと思った式は難しそうに眉をひそめて呟いた。 「似ているっていうより────アレは、むしろ」  そこで式は足を止めると、林を睨むように木々の奥をじい、と見つめた。 「鮮花。あの奥に何かあるだろ。木造の建物みたいだけど」 「ああ、アレは旧校舎。使われなくなった初等部の校舎で、冬休み中に取り壊す予定だけど、それが?」 「ちょっと見てくる。鮮花は先に戻ってろ」  黒い礼服のスカートを翻ひるがえして、式は早足で林の中へと消えてしまった。 「ちょっと、式! 待ちなさい、独りで勝手に動き回らないって約束でしょう!」  叫んで式の後を追う。 「黒桐、鮮花さん?」  その前に、わたしは背後から呼び止められた。 /1 ◇ 『式、新しい仕事だ』  と、トウコは電話越しに言った。  一月二日の夜、トウコは今までとは毛色の違った仕事を私に押しつけた。  鮮花の通う礼園女学院におかしな事件が起きたから調査に行ってほしい、という内容に、私は心弾まなかった。  私───両儀式が蒼崎橙子に協力しているのは殺人ができるからなのに、今回の仕事はただ原因の究明をするだけときている。それでは私の虚うつろな心持ちは渇いたままで満たされない。  そもそも、トウコの仕事で何かを殺すコトはあっても人間という物を殺したコトは一度もなかった。たいていは訳のわからない化け物の始末で、夏に一度そういう機会があったけれど、結局、私は『物を視みるだけで曲げる』という相手を殺すまでには至らなかった。……正確に言うのなら、その仕事の最中に式がどうして殺人行為に執着するかが分かってしまって、私は殺し合いなら誰とでもかまわない、という妥協を結んでしまっている。  それはとりあえずお腹は膨ふくれるけれど、味に満足できないという状況だ。  そんな生活に不満を感じはじめている最中、今度は事件の首謀者を発見するだけでいい、という曖昧な仕事がやってきた。  私は乗り気ではなかった。けれど他にやる事もないのだ。部屋で眠っているか、礼園女学院にいって眠るかの違いなら、断る理由が見当たらない。  私は詳しい事情を聞いて、妖精が見えない鮮花の目として礼園女学院に赴おもむく事になった。三学期から編入予定と偽装して、冬休みの間だけの転入生として。 ◇  林の中を歩く。  鮮花は付いてこない。  私は木々のカーテンの奥に見える、木造の校舎を目指していた。  曇った天候のせいか、林の中は霧がかかっているように灰色だ。  礼園女学院の敷地は広く、校舎と校舎の間に植えられた木々は、すでに学校で所有する林の域を逸脱している。  礼園の敷地の大半は、木々に埋め尽くされた森だった。学園の中に森があるのではなく、森の中に学園がある。  腐葉土の地面を歩きながら、私はぼんやりと空気の匂いをかいだ。  滾こん々こんと湧き出る水のように、空気には薫りがあり、色がある。木々の葉のにおいと虫の音が混ざりあって、心が霞かすみに酔ってしまう。  熟うれた果実みたいな甘ったるい空気。時間がゆったりと進ませていく風景たち。水彩で描かれた風景画の中を歩くような、ふわふわとした不思議な居心地。───たしかに。外界と遮断されたこの学園は一つの異界だった。  ふと思い出してしまう。  以前、一つのマンションに誰にも介入させない事で異界を作り上げていた男がいた。あいつはなんて回りくどい事をしたんだろう。この学園や両儀の屋敷のように敷地の周囲を壁でかこって誰も入れないようにすれば、それだけで世そ界こは世界と切り離されるというのに。  ほどなくして林を抜けた。  初等部の校舎だったという建物は四階建ての古めかしい木造だ。  森の中、木々を円形に伐きり取った広場に、校舎は呼吸さえなく佇んでいる。  広場には枯れ草が広がっていて、なんだか草原みたいだ。  校舎は朽ち果てる時を待つ、臨終まえの老人によく似ていた。  草を踏みしめて校舎の中に入ると、中は外観ほどくたびれてはいなかった。  初等部のものだからか、校舎はどことなく小さい気がする。板張りの廊下は、歩くたびにきいきいと音がした。  きい、きい。キい、きイ。  ……虫の音は校舎の中にいても聴こえてくる。  私は無人の廊下の真ん中で歩くのをやめた。 「玄霧、皐月」  さっきの教師の事を考える。  鮮花は、アレが黒桐幹也に似ていると言った。  似ているというのなら、似ている。  人間はみんな同じ顔つきだから、誰だってそっくりだ。けれど、アレは外見だけが似ているんじゃない。まとっている空気さえ同じなのだ。 「……似ているんじゃない。アレはそのままだ」  けれど、何かが決定的に違う。  なにが?  答えは出ない。  喉のどまで出かかっているのに、あと一歩で思い出せない。  識しっているのに分からないなんて、私も随分と人間らしくなったものだ。  半年前───目覚めたばかりの頃は、分からない事なんてなかった。分からない事は両儀式が識らない事だから、考える必要なんてない。  でも今は、両儀式が識らなかった出来事を、私は知識として経験している。事故の前の両儀式と事故から回復した私との間にあった絶望的なまでの断絶の壁は、だんだんと薄れていくように思える。  それはきっと、私としての感情を持たなかった私が、こうやって未知の出来事と遭遇する事によって『私の記憶』を重ねているからだ。  私は───胸に空いている穴を、くだらない現実や瑣末事にすぎないささやかな感情で埋めていく。依然として生きているという確かな実感はないが、目が覚めたばかりの頃ほどの虚無感はなくなっている。  なら───いつか、この胸の空あながなくなれば、私は人並みのユメなんていうものを観れるようになるのかもしれない。 「淡い希望だね、織しき」  私は私に囁ささやいた。答えはないと分かっていた。 『いや、それはつたない希望です』  ────なのに、応える声があった。  キイ。キイ。キイ。  虫の音がする。  首の後ろに、ちくり、と何かが触れた。 「────あ」  意識が遠とお退のいて、ここにいたという記憶が白くなっていく。  今見ている景色が、消しゴムをかけられたようにザーザーと無くなっていく。  ……なんて、無ぶ様ざま。ここがムシ達の巣だと判っていたからやってきたというのに、私は─── 「この」  不愉快になって腕を動かす。  自分のうなじあたりに手を伸ばして、私はたしかに何かを摑つかんだ。  手の平より少しだけ大きい人型をしている、というのは摑んだ感触で判る。  鷲摑みにしたソレを、私はそのまま握り潰した。  キイ、と一際たかい音。  それで遠くなっていく意識は元に戻った。  首の後ろにやった手を戻して、じっと見つめる。  手の平には白い液体しかなかった。どろり、とした粘着性の液体が床にぽたぽたとこぼれていく。  潰した途端、ソレはこうなってしまったようだ。  私は妖精なんて見た事がない。  だからこれが鮮花が言っていた妖精像と同じなのかはてんで判別がつかなかった。 「……気色悪い」  ぶん、と手を振るって液体を払う。粘着性のくせに肌に張りつかない、という不可思議な液体はキレイにとれた。  虫の音はもう聴こえない。  ……あまりに不愉快さに勢い妖精を潰してしまったが、それはやっぱり失敗だったみたいだ。  あれほど群れていた妖精らしき気配は、もう一匹だってありはしない。  仲間を殺されて逃げ出したのか、私が妖精を手に取れるのを見て妖精の持ち主が撤退したのか。  どちらにしても、この廃校舎から手がかりはなくなったようだ。  私は来た道をたどって、渡り廊下に戻る事にした。 ◇  林の中の渡り廊下に戻ると、律儀な事に鮮花が待っていた。  黒桐鮮花は私よりいくぶん小柄で、髪が長い。  さっきの黄路とかいう女はお城の妃みたいなヤツだったが、鮮花はお城のお姫さまという表現がぴったりくる。ただ、その前に『勝ち気な』という単語が付けられるのだろうけれど。  私は無言で鮮花の傍らへと歩いていく。 「あれ? 式、行かないの?」  ……いきなり、鮮花は妙な事を口走った。 「行かないって、どこに?」 「だから───あそこに」  ……話はまったく要領を得ない。  鮮花はやはり不思議そうな顔つきで私と、林の奥とを見比べる。  ───なるほど、と私は理解した。 「鮮花。いま何時だかわかる?」 「午後二時をまわったところだけど────」  鮮花は愕がく然ぜんと言葉を切った。時刻はすでに三時を回っている。 「一時間も立ち尽くしていたなんて余裕だな。何をしていたか覚えているのなら、問題はないけどさ」  鮮花は無言で、かすかに腕をふるわせながら自らの唇に指をあてた。  彼女は驚きを隠せない様子で中空を見つめている。  おそらく。鮮花は私が戻ってくるまでの間に何をしていたか記憶にないのだ。 「式、わたし、まさか」  信じられない、と鮮花は身を震わせて呟く。  それは怖れからくるものではなく、純粋に怒りからくるものだろう。自尊心の塊かたまりみたいな鮮花にとって、自分も知らぬまにやられていた、なんて事は屈辱以外の何物でもないだろうから。 「言うまでもないだろ。おまえ、妖精に奪われたな」  とたん、鮮花はカッと顔を赤らめる。  それは自らの未熟さと屈辱が入り混じってのもので、恥はずかしいんだか悔しいんだか。鮮花はいつだって冷静なくせに、こうやって感情を率直に表してしまう。それはとてもアンバランスで、周りからして見れば可愛らしい事に違いない。 「───寮に戻ります。方針、改めなくちゃいけないみたいだから」  拗ねるように言って、鮮花はつかつかと歩きだす。  その背中を見て思った。  実は私も、その少女らしい素直さに感心すると告げたら、鮮花はなんて反応するだろう。  ……まあ、そんな事は考えるまでもないコトだ。  私は今までと同じに、あえて何も語らず彼女の後についていく事にした。 /2  寮に戻って一年四組の生徒の何人かと話をし終わったころ、外はもう暗くなりかけていた。  学校が休みといっても寮内の規律は生きているとの事で、私たちは鮮花の寮室へと移動した。  ここでは午後六時以降、寮内の行き来さえ禁止されてしまう。トイレは別問題として、一階にある学習室を利用する時のみ部屋から出る事を許されるのだそうだ。  高校から入学した生徒はこの不自由さに慣れず、たびたび友人の部屋に遊びに行っては見回りのシスターに発見されるらしい。初等部から過ごしている生徒は慣れたもので、無闇に外出はせず、するにしてもシスターの見回りルートを知りつくしているので見つかる事はないらしい。  ……そんな話を、鮮花は丁てい寧ねいに聞かせてくれた。  今回の事件にまったく関係ない内容である事から、おそらくはグチなのだろう。  鮮花は自分の椅子に座っている。  一年生の部屋は相部屋で、鮮花のルームメイトは帰省していた。  部屋には壁と一体化した机が二つと、二段ベッドが一つ。個人の持ち物であろう本棚やらカラーボックスやらが壁ぎわを占拠しており、部屋は細長い造りをしていた。  建物自体が古いので寮室も古くさいのだが、それは歴史を重ねた古くささで、落ち着いた雰囲気を醸かもしだしている。  鮮花は部屋に帰るなり制服を脱いで、パジャマに着替えていた。私も暑苦しい制服を脱ぎたかったけど、着替えなんて持ってきていない。  仕方なく、制服のままベッドに腰をおろして鮮花の話を聞いていた。 「……というわけで、寮内での行動はできませんので今日はもうお休みです。起床は五時ですが、冬休み中、朝の礼拝はないから六時あたりまで眠っていても平気です。……いい、式? 他の生徒やシスター達はわたし達が一年四組の事件を調べているって知らないから、目立つ行動は極力さけること。あんたと違ってわたしはこのあと二年間もここで暮らすんだから、騒ぎだけは起こさないでよね」  鮮花は昨日言った事を今夜も繰り返す。  そんなもの、ほんとうにいらない心配だ。  私は眠る場所をここに変えただけの話で、やる気なんて存在しないんだから。 「安心しろ。オレの役目は視る事だけだから、刃物は持ってきてないぜ。まだ妖精使いとやらに個人的な恨うらみも持っていないから、平和なもんだよ。感情にまかせて突っ走るっていうのなら、おまえのほうが心配だね」 「わたしは冷静です。目的は真相の解明であって原因の排除じゃありません。調べるだけ調べたら、さっさと橙子さんにバトンタッチしますから」  すんなりと受け流すけれど、鮮花の目はちっとも大人しくなんかない。  昼間の妖精の一件が効いているのだろう。基本的に、鮮花はやられたらやり返す性格だ。 「そうだな。そう出来ればとてもいい、鮮花」  鮮花はじとりと視線を向けてくる。 「……人を馬ば鹿かにしてませんか、貴女」 「冤えん罪ざいだよ、それ」  困ったように非難してくる眼差しは幹也そっくりで、私はつい笑ってしまう。 「───いいです。わたしは間違っても問題は起こさないから、式に心配してもらう筋合いはありません。さて、話を戻すけど。今日会った人の中でおかしな人はいた、式?」  かちり、と鮮花は話題を切り替えた。 「おかしなヤツっていったら、会った連中全部だぞ。一年四組のやつらはみんな首元にアレがついてたし」 「アレって、式が潰したっていう妖精の血液?」  鮮花は眉をひそめる。……きっと、私の事をひどいヤツだとか思っているに違いない。それは事実だから否定はしないけど。 「血とは違う。蝶とかの翅はねについてる鱗りん粉ぷんみたいな物だ。体液だったら連中も気がつくだろう。それと、玄霧って教師にもあったぜ。あの時はなんだか判らなかったけど、思い返してみれば首元に残ってた」 「───そっか。ねえ式、記憶を奪っていく理由ってなんだと思う?」 「知らない。オレがやってるわけじゃないから」 「ええ、ええ、そうでしょうとも。あんたに意見を訊くなんて、わたしも随分と弱気になったもんだわ」  勝手に怒ると、鮮花はひとりで思案しだした。 「……十二月からDクラスの生徒達に送られていた手紙。手紙の内容は『本人も忘れている秘密』だった。同時期、学園内で妖精の噂が流れている。この妖精は枕元にやってきて記憶を奪っていくらしい。  冬休み前のDクラスの教室で、ふたりの生徒が口論のすえカッターで切りあった。喧嘩の原因はやっぱり手紙。一月もの間、自らも知らない自分の記録を配達され続けたDクラスの生徒達はクラスメイトの言い争いを傍観してしまうほど、精神的に麻ま痺ひしている。自殺者ぐらい出てもおかしくない状況だっていうのは、四組の生徒達と話して実感できた」  ぶつぶつと鮮花は今までのあらましを整理している。 「式は実際に妖精に遭遇したし、わたしも一時間ばかり記憶に空白がある。……何をしていたんだろう。一時間もあればたいていの事は出来るっていうのに」  記憶の空白は鮮花でも気になってしまうものらしい。  ……私はどうだろう。  四年前……私が高校一年の頃の記憶は穴だらけで、居心地が悪い。あの頃、街は無差別に人を殺してまわる通り魔事件に怯えていた。  私は、その事件に関係していると思う。けれどその時に行動していたのは織のほうで、彼がいなくなった今、その記憶は永遠に失われてしまった。 「───あれ」  ふと、気付いた。  なんで今まで気がつかなかったんだろう。  四年前の殺人鬼に関する記憶がないのは、織がそれに関わっていたからだ。  なら───私が事故に遭う直前の記憶がないのはなぜだ。あの時、私は織ではなく式だった筈なのに。  もし今回の妖精使いとやらが忘却している記憶を知る術すべを知っているのなら、私は過去を手に入れられるかもしれない。  ……けれど、やはりどうもしっくりいかない。  鮮花が妖精とやらを信じているかどうか知らないが、私にはどうしてもその存在が納得いかないのだ。  何か。根本的な勘違いを、私と鮮花はしているような気がしてならない。 「なあ鮮花。本人さえ忘れている記憶は、どうやって調べられるんだろう」 「そうね……催眠状態にして脳の深部からひきだすんじゃないかしら。記憶の四大機能って知ってる、式?」 「銘記、保存、再生、再認だろ。ビデオテープと同じ。録画した映像にラベルを貼って銘記する。それを大事にしまって保存する。見る時はデッキにいれて再生する。再生した内容が以前と同じか再認する。どれか一つでも故障すれば、脳は正常に働いてくれない」 「そう。本人が忘れていても、脳そのものが故障していなければ記憶はどこかに残されているのよ。脳は絶対に銘記した物は忘れないから。妖精はそれを奪っていくとしか思えない」  ……物忘れを採集する妖精、か。トウコは悪意がある、と言ったらしいが、私には悪意とやらは感じられない。だって本人が忘れている記憶なんだ。そんなもの、奪っても本人だって気がつかない。  それを手紙にして送り届ける、というのはむしろ善意からの行動ではないのか。  あなたはこんな出来事を忘れていますよ、今度は失なくさないようにしてくださいね、と。 「記憶を奪うのは何かの証拠を隠滅する為かもしれない。けど、忘れていた記憶を見せつける、っていうのはどういう意味合いなんだろう」  疑問は言葉になって漏れていた。  鮮花はそうね、と椅子に背を預ける。 「やっぱり罪の告発なんじゃないかな。おまえは昔、こういう罪をおかしているって報しらせるための」 「一ヵ月も、延々と違う罪を見せるのか。それは告発じゃなくてただの嫌がらせだ。子供じみてる」  橙子の話じゃあ妖精は子供と相場が決まっているらしいから、そういうものなのかもしれないが。  私はそれで思考を止めた。  目にすぎない私がどうこう思案しても、結論を出すのは鮮花本人だ。  私は腰掛けたベッドに、そのまま寝そべる。 「ね、式。一つ教えてほしいんだけど」  椅子に座ったまま、鮮花はどこか恥ずかしそうに何事かを尋ねてきた。 「その、妖精の見付け方って、どうやるの?」  ……よっぽど妖精に記憶を奪われた事が悔くやしいらしい。  けど、私にだって見付け方なんて解らない。 「知るもんか。しいて言うのなら見ない事だけど、鮮花には無理だろ。どうしてもって言うのなら、そうだな。なんとなくあったかそうな所を適当に探ってみろ。カンがよければ摑まえられるぜ」 「空気が暖かい所、ね」  なるほど、と鮮花は納得する。  まったくのデタラメだったが、噓は言っていない。  妖精だって生きているのなら熱を発してる筈だ。ならそこだけは他より熱っぽいんだから、運がよければ触る事ぐらいは出来るだろう。  ともかく、話はこれで終わった。  私は鮮花の大きめな寝巻きを借りて、二段ベッドの上段で眠る事にした。 忘却録音/3  一月五日、火曜日。  いつまでたっても起きない式を放っておいて、わたしは一階の学習室に向かった。  時刻は朝の七時すぎ。学習室で勉強をしようなんて殊勝な生徒はいないのだが、だからこそ密会にはちょうどいい場所になる。  学習室は寮生の為に設けられた図書室だ。各々の目的は違えど、夕方から消灯時間まで寮生たちはここに集まり、お喋しやべりをしたり教科書を開いたりする。が、夕方からは鬼の寮監ことシスター・アインバッハがじきじきにご指導にくるので、彼女の目を盗みながらのお喋りや内職となるわけだ。  とまあ、夕方からは恐ろしくも賑やかな学習室も、こんな朝方では人の気配は途絶えている。それを利用して、わたしはここにDクラスの委員長を呼び出していた。  昨日、寮に戻って数人の四組生徒に話を聞いてみたけれど、みな同じような話ばかりでちっとも要領をえない。そもそも、部外者であるわたしに彼女たちが心を開いてくれるわけもないのだ。  そうなると、こちらとしてはハラをわって正面から挑むしかなくなる。戦うのなら一対一は大基本。それなら、という事で一番話がまとまりそうなDクラスの委員長である紺こん野の文ふみ緒おをわたしは選んだ。  学習室に入ると、やはり人影はない。  ストーブが点つけられていないので、学習室はひどく寒かった。 「黒桐、こっち」  凜とした声が、学習室の奥から響く。  図書室でもあるここは、部屋の奥が本棚によって埋められている。その棚と棚の間に隠れるように、紺野文緒はわたしを待っていた。  扉を閉めて奥へと進む。  紺野文緒は、一言でいうとはすっぱな娘だ。わたしと同じく高校から礼園に入学した子で、背がすごく高い。百七十センチは優に超えていて、迫力がある。  本人も自分が少女らしくないと悟っているらしく、髪は短い。そのくせ顔つきはやけに大人っぽくて、大学生といっても通用しそうな雰囲気だった。 「すみません、朝早くから呼びつけてしまって」  一応初対面なので、わたしはお辞儀なんかしてみる。紺野ははん、と視線を逸らして皮肉げに両腕を組んだ。 「いいよ、どうせあたしも他の連中と一緒で眠れないんだ。何かしていたほうが気が紛れるってもんさ。で、話ってなに? 葉山のこと?」  紺野文緒は、なんていうか、ものすごく竹を割った性格みたいだ。わたしが何か調べていると解っている上で、いきなり本題に入ってくる。 「……葉山って、葉山先生のことですか?」 「そうだろ。昨日から見慣れない美人を連れて、うちのクラスの連中に話を聞いてるって噂じゃないか。Aクラスの首席がさ、あたし達に用があるっていったらアイツの事に決まってるだろ」  じろり、と彼女はわたしを睨む。  ……さすがに、話は通っているみたいだ。  わたしは紺野の鋭い視線を見つめ返した。 「葉山先生のことは正直考えていませんでした。けど、それはわたしの認識不足だったみたいですね。……率直に言うと、わたしはマザーからあなたのクラスで起きた事故について調べるように頼まれました。紺野さん、あなたはきちんと覚えていますか?」  わたしの質問に、背の高い彼女はばつが悪そうに顔を曇らせる。 「……まいったね、学長直々かぁ。さすがに優等生は違うわ。あたしなんて事故の事は忘れて勉学に励みなさい、なんて追い返されたっていうのに。まいるなあ、ほんと」 「───紺野さんも、あの事故の事を?」 「当然でしょう。これでもクラス委員だし。あたしもさ、玄霧センセと同じなんだ。その場にいたくせに止められなかったし、あの日の事を全然覚えていないのよ。思い出してみれば、ああ、そういう事もあったな、ぐらいしかわからない。あの事故を起こしたふたり……嘉か島しまと瑠る璃り堂どうっていうんだけど、病院に運ばれてそれっきりだし。見舞いがてらに詳しい話を聞こうとして、学長にふたりがいる病院を訊きにいったら追い払われたのよね、あたし」  光ツ沢ヤのある髪を搔きながら、照れくさそうに紺野は言う。  その仕草だけで、わたしはこの人物が気に入ってしまった。 「じゃあ、その───貴女にも手紙が送られてきていると思うんだけど」 「ああ、アレね。うすっ気味悪いったらありゃしない。あたしは比較的少ないほうだけど、多いヤツは毎日だって。嘉島と瑠璃堂も毎日だったって話だから、かなりまいってたんじゃないか」  手紙の内容は、本当に害のない過去の事がほとんどらしい。小学生の時に憧れの男の子と一緒に帰った事とか、いなくなってしまった飼い猫の話とか。 「初めはさ、つまんない事書いてるって思ったんだ。でもよく思い返してみると、それって自分の事なのよ。あたしはびっくりするっていうより、感心したほうかな。ああ、そんな事あったな、っていう。中には物凄く怯えて誰とも話さなくなったヤツもいるけど」 「それは、心にやましい事があるって事でしょうか?」  だろうね、と紺野は頷く。 「一応訊いておきますけど、手紙の送り主に心当たりは?」 「……常識的に考えればないけど、これってもう非常識な話でしょう? 幽霊とか妖精がありっていうのなら、心当たりはあるよ」  けど、その心当たりを紺野文緒は口にしてはくれなかった。あたし個人だけの問題じゃないから、と彼女は回答を拒絶する。  わたしは攻め口を変えてみる事にした。 「では、紺野さんは今回の事をどう思います?」 「さあ。異常っていえば異常だけど、うちのクラスは前から壊れてたからさ。なんか、まわりくどい天罰なのかもしれないよ。黒桐は知らないだろうけどさ、Dクラスっていうのはほとんどが高校から礼園に入った子たちなわけ。問題児が多かったんだ、ほんと」  あたしもその一人だけど、と彼女は付け足す。  これは後から知った話なのだが、紺野文緒といえば中学時代には有名なバスケットボールの選手だったらしい。中堅企業の会長の一人娘である彼女は、本人の意思に反して礼園に入学させられたという話だった。 「葉山先生が寮に放火したって話は、どう?」  ここが勝負所だ、と覚悟を決めてわたしは切り出す。紺野は目に見えて苦い顔をして、わたしから目を逸らした。 「……アイツが何を考えて寮を燃やしたかなんて、あたしにはわからない。葉山英雄って男はかなりいかれてた。アイツの口癖ってなんだったと思う? 兄貴はどうして俺に学長をやらせないんだ、だって! 信じられないでしょ? そんなの、高校もまともにでてないヤツが言う台詞かっていうの! あんなヤクザそのものの男に学長はおろか教師なんてやらせるべきじゃなかったのよ。佳織が死んだのはアイツと、肉親だからって無職のアイツに教師をやらせてやった理事長のせいだ。あたし達は関係ない。そう、あたしの責任なんかじゃない……っ!」  ……気丈なように見えて、彼女も神経がまいっていたのだろう。わたしを見もしないで、今にも泣きだしそうな顔で彼女は憎々しげにそう呟いた。  ……まいったな。これ以上は何も訊き出せそうにない。 「ありがとう。参考になったわ、紺野さん」  紺野文緒に背を向ける。 「ああ、あと一つだけいい? 貴女、妖精は信じている?」  去り際、どうでもいいアンケートみたいに気軽に訊いてみた。 「……信じられないけど、居るとは思うよ。他の連中もあたしも、噓みたいに記憶があやふやなんだから」  そう、と返して、わたしは学習室を後にした。 ◇  その後、四組の生徒に話を聞いてみたがどれも結果は同じだった。  彼女達は誰もが疑心暗鬼になっていて、それぞれの部屋に籠もっている。それは何かを待っているようにもとれる閉じ籠もり方で、そのくせ口をそろえて家に帰りたい、と呟くのだ。帰ればいいのに、と尋ねれば、誰もが口を閉ざしてしまう。……まともに話が出来たのは紺野さんだけで、他の生徒達とは会話すら成立しなかった。  総合結果としては、彼女達は全員が妖精を信じていた。つまり、だれもが手紙と記憶の欠落を持っているという事だ。  それ以外に確信した事もひとつある。  彼女達───一年四組の生徒達は、クラスぐるみで何かを隠している。それが何なのかは解らないけれど、担任だった葉山英雄が絡んでいる事は、もう隠しようのない事実だった。 ◇  そういうわけで、わたしは職員室へと足を運ぶ。  葉山英雄本人は十一月の学生寮放火事件を境に学園を去っているが、なんらかの手がかりが資料として残っていないかと期待して。 「失礼します」  と、職員室の扉を開く。  意外な事に中には誰もいなかった。  もともと職員室は朝の職員会議にしか使われない事務室みたいな物で、シスター達はあまり寄りつかないし、事務員さんは冬休み中なのでいる筈もない。 「ああ───神よ、感謝します」  にやりアーメン、と笑ってわたしは事務の資料棚をあさりはじめた。  とにかく、去年の十一月あたりのファイルをかたっぱしからチェックしていく。  一時間ほど夢中になっただろうか。それでもめぼしい情報は発見できなかった。 「……まいったな、これじゃあ本当に式をつれて校内を隈くまなく探すしかないみたい」  そんな、ドーベルマンをつれて町中を歩くような真ま似ねはしたくないけれど、もうそれ以外に手はなくなってしまった。  仕方なく散らかしたファイルを仕舞う。  ……と、自分の目を疑うほどの書類を見つけた。 「……葉山英雄、九七年二月就任、九八年十二月退職……」  一見普通。けど、どこかおかしい。十二月に退職? そんな馬鹿な。葉山英雄は十一月の初めに寮に放火して、そのまま学園から姿を消した。なのに、なんで十二月まで職員として登録されているんだろう。  しかも……退職になった理由が住所不定の為。ようするに、それって行方ゆくえ不明ってこと───!?  わたしは混乱する頭を抱えて、とにかく資料を元に戻し職員室から廊下に出る。  と、そこであまり会いたくない人物に出会ってしまった。 「おや、職員室に何の用ですか、黒桐君」 「……おはようございます、玄霧先生」  ぺこり、と一礼するわたしに、もうお昼だけどね、なんて気さくな返答を先生はしてくれる。  昨日は式とふたりだったからよかったけれど、わたしはこの人と一対一で向き合うのはイヤだった。  とにかく苦手なのだ。  不安で胸がどきどきする。それが幹也に似ているこの人への感情なのか、単にわたしが不安なだけなのか。とても、判別がつかないから。 「先生は、職員室になにかあるんですか?」  いかにもその場しのぎな質問をする。  そんなぞんざいな言葉にも、玄霧皐月は真剣に対応してくれた。 「ああ、マザーに頼まれていた仕事があってね。生徒たちの名簿を仏語に書き換えなくちゃいけない。あちらには礼園に縁のある大学が幾つかあるから」 「へえ、わたし達の名簿を送るんですか」 「だろうね。黒桐君には他ひ人と事ごとではない話題かもしれない。留学生の候補は君と黄路君が双そう璧へきだから」  ……そんな話、初耳。  わたしは適当に笑顔で応え、玄霧先生の脇を擦り抜けようとして、足を止めた。そういえば先生に訊いていない話題が一つ残っている。 「玄霧先生。いま、生徒たちの間で流は行やっている噂話って知っています?」 「ああ、妖精の話ですね。聞いています」 「先生はそれ、信じていますか? あ、もちろんわたしは信じていませんけど」  妖精を信じてる、なんて思われるのが恥ずかしくて、つまらない事を口にしてしまう。そんなわたしを彼は柔らかな笑顔で見つめた。 「妖精というのは日本では珍しい噂でしょうが、あちらではポピュラーなんです。スコットランドでは猫妖精ケツトシーや犬妖精カーシーという可愛らしい逸話もあって、わりと好きだったりします」  ……ああ、そうか。玄霧先生はもともと外国の人なんだっけ。あちらの大学では民俗学の中に妖精分野というものまであるらしいから、あながち子供じみた質問ではなかったみたいだ。 「ケットシーって、長靴を履いた猫ですよね?」 「おや、よく知っていますね。喋る猫のお話は日本にもありますから、そうオリジナルな訳ではないんですが」  ほら、どことなく知性の香りがしてきたじゃない。  わたしは調子にのって、もう少し話をする事にする。 「では、あちらでは妖精の悪戯というのは実際に起こりえるんでしょうか? あくまで自然現象、土着風習の捉え方の一環として」 「最近はあまり聞きませんが、子供のすり替えはたまに起きるようです。農作を手伝いにくる〝余よ所そ者〟はいなくなったようですけど」  そうして、先生は少しだけ話をしてくれた。  手ブ伝ラいウ小ニ人ーや叩ノくツ小カ人ーと呼ばれる、家や鉱山にやってきて仕事を手伝ってくれる妖精というのは、ようするに村の中に住めない余所者の人間が変化して伝わったものだという。  村社会は、それだけで独立した余分のないシステムだ。なので他の村から流れてきた者は簡単に仲間に入れてもらえない。結果として彼らは山や森に住む事となり、作物の収穫の季節にやってきて仕事を手伝い、親しん睦ぼくを深めていくのだという。これが〝人間ではない他人〟として受け入れられた妖精。  一方、子供のすり替え、とはそういった出来事が悪い方へと働いたパターンだ。金持ちの家に生まれた赤ん坊を、どこそこで捨てられた赤子とすり替える。当時は優れた家柄ほど神に祝福された者達という考えがあり、貧しい生まれの者は祝福された赤子が欲しくて自分達の子供とすり替えたのだそうだ。 「……その、すり替えられた子供というのはどうなるんでしょうか」  なんとなく疑問に思って訊いてみると、先生はにこりと笑って答えた。 「安心してください。大抵はすぐに元通りになりますから。なにしろお金持ちの家ですからね、捜し当てるのは簡単なんです。当時は出産はかならず教会を通して行なわれた。教会で洗礼を受けない子供は、存在しない子供という事になる。市民権がなくなるのです。ですから、どんなに貧しい家庭でも教会にいってお金を払い洗礼を受ける。……まあ、受けないと拷ごう問もんが待っていますから、初めから選択の余地はないんですが。ですから教会に行けば、どこで誰が出産したのかが判ります。子供のすり替えは、本当の妖精しか成し得ない不思議なんです」 「へえ、先生は本物を信じているんですか?」 「居るとは思います。ですが好きではないですね。本物の妖精が行なう悪戯は、少しばかり度が過ぎますから。今言った子供のすり替えだってそうです。妖精は何年か経って、唐突に子供を親元に帰してしまう。帰ってきた子供は白はく痴ちになっているケースがほとんどで、両親は嫌がりはすれ喜ぶ事はなかったといいますから」  たしかに、それは悪戯にしては酷ひどすぎる。  妖精といえば無む邪じや気きというイメージは払拭しなければいけないみたいだ。 「……おっと、すみません。長話になってしまいましたね」 「いえ、楽しかったです。それでは失礼します、先生」  わたしはもう一度お辞儀をして、早足で玄霧先生の前から立ち去ることにした。 ◇  正午を過ぎて、わたしは十一月に燃えてしまった東の学生寮に行ってみる事にした。別段目的があっての事ではない。葉山英雄が燃やしたという学生寮を、一度ぐらいは見ておくべきだと思っただけの話だった。  東館の周囲には縄が張られていて、立入禁止の札がかけられている。  それを乗り越えて、わたしは東館の中へと足を踏み入れた。  ……東館はその大半が焼かれてしまっていて、部屋が並んでいる東側の壁がごっそりと失われていた。  何か、巨大な怪物がツメで薙なぎ払ったように壁がない。部屋があった区画はすべて焼け落ち、崩れて、押せばボロボロと灰になっていきそうなほどだ。  それとは対照的に、廊下のある西側はまともに残っていたりもする。廊下だけ歩いていれば、火事があったなんて判らないぐらい原形を留めているのだ。  けれど焼け崩れた寮室の扉を開ければ、その先にあるのは外の景色と、少しだけ土台が残っている廃墟にすぎない。  そんないびつな形をした、前衛的なアートじみた建物の中を歩いていく。  ……ここに放火した葉山英雄という教師を、わたしは一度しか見ていない。  彼はおもに三組から五組までの授業を振り当てられていて、Aクラスに来た事は一度もないのだ。  わたしはただ、朝の礼拝儀式の時につまらなそうに聖書のページをめくっている葉山英雄しか知らない。三十歳ほどの男性で、顔の作りはそれなりだったと記憶している。 「一度しか見ていない相手を調べるなんて、バカみたいだ」  ひとりごちて、わたしはここから立ち去る事にした。一階まで下りて、玄関に向けて廊下を横断していく。  と、その時。  玄関から見覚えのある人影が、わたしに向かってきていた。  長い黒髪と堂々とした美貌を兼ね備える人物は、礼園には一人しかいない。  学園の影の実力者、黄路美沙夜はなぜかわたしに近付いてくると、二メートルほどの距離をおいて立ち止まった。  彼女はわたしの顔を見て、にこりと微笑む。 「調子はどう? あれから何か進展して、黒桐さん?」  柔らかに、黄路美沙夜はそう言った。  瞬間、背筋に悪お寒かんが走る。  たしかな理由なんてない。  けれどそれだけで。  わたしは、こいつが昨日の挨拶の主だと直感した。  ────きい、きい、きい。  虫のような鳴き声が、たしかに聴こえた。  このままでは昨日の二の舞だ。また、いつのまにか記憶を奪われて何時間も立ちん坊をする事になってしまう。手袋を用意しなかったのは痛恨だけど、こうなったら焼やるしかない。  わたしははっきりと目前の黄路美沙夜を睨みながら、空気が不自然に暖かい場所を感知する。  ……式はどうだか知らないけど、こと熱に関しての探知と加速なら、わたしはすでに一人前だ。  大気の中で不自然に暖かい歪みぐらい、目をつむっていたって感じ取れる─── 「───そこ!」  もう胸のあたりまで迫っていた『何か』を、わたしは素手で摑み取った。  手の平には、たしかに何かを摑んでいる感覚がある。きいきいと鳴くそれには目もくれず、黄路美沙夜から目を逸らさない。 「あら。貴女、妖精は見えないと教えてくれたのに、もう見えるようになったの?」  余裕ありげに美沙夜は話しかけてくる。  その偉ぶった態度で、わたしはこの相手を完っ璧なまでに敵と認識した。 「……そっか。昨日の一時間、わたしは先輩とつまらない話をしてたみたいですね」 「ええ。おかげで、貴女の事で解らない事は一つもなくなったわ。一時間もあったんですもの。貴女がどんな人間なのかなんて、この仔こたちにかかれば簡単に手に入ります」  黄路美沙夜は片手で自分の肩あたりを撫でる。  きい、という鳴き声。  おそらくそこにも妖精がいるのだろう。いや、彼女の周囲には彼女以外の熱が感じられる。数えてみれば、それは五十匹を超えていた。  ……妖精が見えないわたしにとって、絶望的なまでの戦力差だ。 「冷静ね、黒桐さん。驚かないなんて、つまらないわ。私は貴女の話を聞いて驚いたのに。そうでしょう? まさかこの学園で、私以外に魔術を習っている人がいるなんて思っていなかったから」 「驚きませんよ。初めから妖精使いがいるって判っていましたから。けど、驚いた先輩は慌あわてて邪わ魔た者しを消すために待っていたんですね。その行動自体は正しいと思いますけど……自分から正体を明かすなんて程度が低いですよ、黄路先輩」  よし。とりあえず言いたい事を言って、どうやって逃げ出そうか考える。  わたしの役割は原因の究明だけだ。普通のケンカなら望むところだけど、殺し合いに直結する他の魔術使いとのケンカなんて、したくもない。 「黒桐さん。私、貴女を消そうだなんて思っていないわ。だって貴女は数少ない私の同類ですもの。いがみ合うよりは理解しあいたいと思わない?」 「……いきなり妖精をけしかけておいて、理解しあうもないと思いますけど」 「違うわ。その仔は効率のいい話し合いの席を設けるために使ったの。貴女には無意味に終わってしまって、残念でしたけど」  どこまで本気なのか、黄路美沙夜は涼しげに言う。  わたしは───背後の逃げ道を横目で確認しながら、ちょっとだけこいつの言い分を聞いてみる気になった。 「話し合いって、わたしと先輩で、ですか」 「そう。黒桐さん、貴女はここに来てくれた。  それだけで私は貴女に好感を持ったわ。だってここは───」 「橘佳織が亡くなった場所だから、ですか」  ええ、と満足げに彼女は頷く。  けれどその目は、無慈悲な女王のように冷たい憎悪に濁っていた。 「十一月の火事で逃げ遅れた一年四組の生徒ですね。その子と知り合いだったんですか、先輩は」  判りきったわたしの質問に、黄路美沙夜はええ、と優雅に頷いて答えた。 「佳織は私の後輩だった。初等部からの、可愛い妹みたいなものだった。要領が悪くて損な役回りを演じてばかりの子だったけれど、誰よりも信仰に篤あつくて優しい子だった。けど、ここで死んでしまった。死ななければならないほどの罪なんてない、キレイな子だったのに。信心深い彼女は、そうであるが故にもっとも辛つらい選択をしてしまった」  辛そうに、本当に悲しむように黄路美沙夜は語る。  けれど、そこから先には慈悲らしき心は一切存在しなかった。 「なのに、彼女達は悔い改めもしない。佳織が命まで投げ出したというのに、以前と何も変わらないのです。そんなもの、すでにヒトではありません。一年四組の生徒達はみな罪人です。あのようなモノ達は私の学園にはいりません。ゴミは焼き捨てるべきでしょう」 「一年四組の生徒が、橘佳織を殺したとでも言うんですか」 「───それなら───いえ、そのほうがなんて救いがあった事でしょうね、黒桐さん。佳織は自殺したのです。この意味は、貴女には解りません」  軽けい蔑べつするような眼差しで、黄路美沙夜はわたしを見た。  彼女の言い分には不明瞭な部分が多すぎる。どうやら一年四組そのものが橘佳織の焼け死んだ原因らしい。  しかし……わたしには解らない、とはどういう意味なんだろう。 「解らなくていいですけど。結局、橘佳織の復讐なんですか、この騒ぎの原因は」 「ええ。彼女達には地獄の底がふさわしい。この学園で安穏に過ごさせる事はできません」 「本当に、殺す気ですか」  短く、わたしは問いただした。  答えは判りきっている。黄路美沙夜は四組の生徒を人間とみなしていない。なら無造作に殺人……いや、消去を行なうのだろう。  けれど、彼女は首を横に振った。 「まさか。殺してしまっては、地獄には堕おちない。だから貴女には解らないのです。ですがそれを責めはしません。……手をお引きなさいな、黒桐さん。私、貴女とは争いたくありません」  そう言うと、彼女はもう一度肩に乗っている妖精を軽く撫でた。 「見えないでしょうが、この仔は貴女の記憶を胎はらんでいます。キレイでしょう? 貴女の思い出は冷たくて、滑なめらかなの。大理石のように美しい。なのにその芯しんには強い炎が燃えている。私にはその中身は見れないけれど、手触りだけでとても純真なものと判ります。貴女───とても良くてよ」  黄路美沙夜という先輩は、そう告げてくすりと笑った。  わたしは、久しぶりに───そう、三年前に両儀式が幹也と一緒にやってきた時以来に、  この女を、こてんぱんにしなくちゃ気が済まなくなった。 …  長い事、わたし達は無言で睨み合っていた。  わたしはもう、逃げるなんて単語を思い出せないぐらい感情が昂たかぶっている。  黄路美沙夜は、小さくため息をついた。 「仕方ありませんね。貴女とは気が合うと楽しみにしていたのに。そんな気がしない、黒桐さん?」 「ええ、まったくしません」  わたしは即答する。  美沙夜はふふ、と笑った。 「そうかしら? 私、貴女と似ているのよ。たとえば、そう───実の兄に、恋をしているところとか」 「………え?」  本当に思いもかけない事を言われて、わたしは喉をつまらせた。カッ、と自分の顔が赤くなるのが判る。 「な、な、な」  にを言うんですか、と言いたいのだが、言葉にならない。  黄路美沙夜は嬉しそうに目を閉じる。 「貴女の事は昨日、貴女自身の口から聞かせてもらったと言ったでしょう? 貴女のお兄さんの事も、貴女の魔術師の事も知っています。そんな所まで私達は似通っている。黒桐さんは半年前からだというけれど、私はもう少し後からかしらね。魔術というものを身に付けたのは」  魔術。その単語が、わたしの思考を急速に冷却した。  黄路美沙夜は───魔術を身に付けた、と言ったのか? 「そうよ。佳織が死んで、私はその報復の為に妖精を操り、人から記憶を奪う術を身に付けた。真理を学ぶ為に魔術を習得したのではなく、個人の目的の為に魔術を身に付けたの。  佳織の為に───彼女に関わった者の記憶を採集するのが私の目的。彼女の恥ち辱じよくの痕跡をすべて消したいの。それ以外はどうでもいい問題よ。私がしたいのはそれだけ。形あるものを壊すわけでもなく、人を殺すわけでもない。どう、黒桐さん。これって悪い事かしら?」 「そんなのは、わたしの知った事じゃありません。けど四組の生徒達を脅しているのが貴女だという事はわかりました。その原因が橘佳織にあるという事も。ですが、玄霧先生はどうでしょう?」  ぴくり、と美沙夜の眉が動揺に歪む。  そう、黄路美沙夜が色々と理屈を並べて自らを正当化しようと、それだけは悪と言い切れる出来事だ。玄霧先生が担任になったのは橘佳織が死んで、葉山英雄が失踪した後だ。彼は事件に何の関係もない。なのに、妖精によって記憶を奪われているんだから。 「玄霧先生の記憶を奪ったのは、余分なことです」  わたしははっきりと言ってやった。ここが、この女の理論武装を破は綻たんさせる最大の好機だと読み取ったから。  けれど予想に反して、彼女の動揺は一瞬で終わってしまった。  いや、むしろ以前より強い意志でわたしを見据えてきてさえいる。 「違います。余分ではありません。あの人は、あんな事件になんて関わるべき人ではないのです。知ってしまった事実は、全て私が奪わなければいけない」  ……なんだろう、この叩きつけるような断定の強さは。  自分でも押されてるな、と分かっていながら、わたしは是非を口にする。 「───どうして?」  黄路美沙夜は、その長い髪をざあ、と揺らしてこう答えた。 「決まっているでしょう。あの人が、血をわけた私の兄だからです」、と。 「……実の兄? 先生が?」  信じられない、と口にするものの、わたしはなんとなく納得していたりもする。  ものすごい偶然だけど、たしかにそれは有り得ない話じゃない。  黄路美沙夜、いや黄路の子供はみな養子なんだから、彼女の旧名が玄霧美沙夜という話も、まあ噓だとは言い切れない。  こっちのショックもおかまいなしで、黄路美沙夜はさらに語る。 「……ええ、私も初めは気付きもしなかった。  佳織の死を知った後、貴女同様に一年四組に疑惑をもった私は葉山英雄を問い詰めたわ。……その後。佳織がなぜあんな事になってしまったかを知った私は、四組の担任になった玄霧皐月に相談するしか手段がなかった。……もう、私ひとりではどうする事もできない状況だったから。  玄霧先生はどこまでも優しかった。そんな人から記憶を奪うのは心苦しかったけれど、私は彼を識る為に記憶を奪うしかなかった。でも、今はその行為こそ幸運だったと思います。先生の記憶は、たしかに私の兄である事を証明していたんですから。皐あ月には佳織の死の真相を全て知っていました。告発するのは容易たやすく、しなければ自責に苦しめられるというのに、兄は彼女達のために黙っていようと決心していたのです。……私が詰め寄ると、死者より生者を尊重すべきだと兄は言いました。  ですが、私は認めません。人を一人自殺にまで追い込んでおいて平然と暮らしている彼女達は許せない。なにより───こんな汚らしい事に心を痛めている兄の姿を見る事が、私には耐えられなかった。  だから、皐あ月にから記憶を奪ったのです。私が妹だという記憶も、あの事件に関する記憶も、すべて。皐あ月には何も悩む事なく平穏に生きて、ただ私を愛してくれさえすればいい。見返りなんて───何もいらないから」  ………わたしは、言葉を失った。  似ている。 似ている?  誰と、   誰が?  けど、ただそれだけだ。  似ているだけ。わたし達は似ているだけだ。  望む形、ほしい物、そのための努力が、ただ、違う。 「……でも、貴女は利用してるじゃない。何も知らない担任として、一年四組の秘密を先生に守らせている。それを貴女は見て見ぬふりで、好きだなんて口走ってる」 「それも、もうじき終わります。言ったでしょう、黒桐さん。私達は似ているのです。だから貴女の葛かつ藤とうも理解できる。  私なら───貴女の望みを叶えてあげられる」  だから仲間になれ、と黄路美沙夜は手を差し出してきた。  黒桐鮮花は、その手を見つめる。  決して許せない、仇かたきのように。 「───条件つきなら、見逃してあげてもいいわ」  心にもない事を口にする。  けど───もし。  もしそれが本当に出来るというのなら、わたしは黄路美沙夜を─── 「貴女が、わたしの失くした記憶を取り出せるなら」  ───殺してでも、その力を奪い取る。 「失くした、記憶?」 「そう。わたしには、幹あ也にを好きになった決定的な瞬間の記憶がない。気がついたら好きだった。だから、貴女がその記憶を取り出せるというのなら───」 「それは無理ね。本人が知らない過去は記憶ではなく記録です。妖精が掠りやく奪だつできるのは貴女の記憶だけ」  ……そっか。  よかった、とわたしは内心で胸を撫で下ろす。 「なら───交渉は決裂ね」  さあ、あとは当たって砕けろだ。  このまま美沙夜へと走って、必殺のネリチャギを炸裂させてやる。  静かに体の重心を前に傾けた時、黄路美沙夜はまた何か口にした。わたしはもう会話をする気もないから、それを軽く聞き流す。 「ねえ黒桐さん。使い魔を作るには前身になるものが必要だと知っているでしょう?」  それぐらい知ってる。わたしは、瞬時に彼女の言いたい事が解ってしまった。  ……この時ほど、自分の卓越した思考能力を恨めしく思った事は、ない。 「なら───あなたがさっきから握り締めているソレは、何から作ったものなんでしょうね?」  美沙夜は笑う。  わたしは手に握ったソレに視線を落とした。  見えなかったものが、ちゃんと見える。  妖精は、わたしがイメージしたものとは少し違っていた。  ───それは、一度しか見た事のない、葉山英雄のような小人だった。  驚いてわたしは手を離す。  その隙をついて───美沙夜の手が、わたしの顔を鷲摑みにした。  わたしの意識はバンジージャンプのように、まっさかさまに墜落していった。 /3 …  そいつは言った。 「思い出を映像のように記録できるというのに、なぜ忘れる事ができるのか」  私は答える。 「記憶はみんな、勝手に忘れてしまうもの」  そいつは言った。 「それは思い出さないだけのこと。あなたはきっと覚えている。記録ができない私と違って、人々の記憶は失われる事はない」  私は答える。 「思い出せないのなら、それは失われたということ」  そいつは言った。 「忘れるという事は劣化させるという事です。思い出は失われるのではなく色いろ褪あせていく廃はい棄き物。もったいないとは思いませんか。みんな、永遠であるものを錆さびつかせてしまう。永遠であるものを、自らの手で沈ちん澱でんするだけの塵ちりにしてしまう」  私は答えない。 〝───永遠でないということは、永遠であるということ〟  そいつは言った。 「永遠は還かえさないといけない。その嘆なげきを再生する。たとえ君が忘れ却さろうとも。記憶は、たしかに君に録音されているのだから」  私は言った。 「永遠なんて、誰が決める」  そいつは答えた。 「わからない。だから、それをずっと探している」  ───そうして思った。  考える事さえできないそいつにとって、解答とは導き出す物ではなく、他人から探し当てるしかないものなのだと。 …  こんこん、というノックの音で私は目を覚ました。  窓の外は灰色の空模様で、今が朝なのか昼なのか判別がつかない。  時計を見ると、時刻は正午をまわっていた。 「黒桐さん、おられますか」  部屋の外からそんな呼び声が聞こえてくる。  私は眠りすぎで起こる頭痛に顔をしかめながらベッドから下りて、ノックされている部屋の扉を開けた。  廊下に立っていたのはシスターの一人で、彼女は私を見て戸惑いの色を浮かべる。見慣れない生徒である私を見て困惑しているようだった。 「両儀式です。三学期から転入の予定ですが」  そう言うとシスターはああ、と頷いて用件を告げた。  黒桐の家から電話がかかってきているので、鮮花を呼び出しにきたらしい。  今日にかぎって鮮花の家族から電話があるなんて、相手はただの一人しかいないだろう。 「なんでしたら私が代わりに電話をとりましょうか。黒桐さんのご家族とは親しくしていますから」 「ああ、両儀さんと黒桐さんはご親戚でしたね。それならば問題はないでしょう。電話はロビーの電話機に移してありますので、お早く出てさしあげなさい」  では、と一礼してシスターは去っていく。  私は鮮花の寝巻きから礼園の制服に着替えて部屋を後にした。  寮のロビーとは玄関口の事だと思う。  昨日、この寮にやってくる時にダイヤルのない電話機がロビーのソファーの前にあるのを見ている。鮮花の話によると、外からの電話はシスター達が控える寮監室に繫がり、電話の相手が生徒に関わりのある親族でなければ切られてしまう仕組みになっているそうだ。  シスターが電話の相手を〝害なし〟と判断した場合にのみ電話はロビーに切り替えられ、生徒は一応プライバシーを守って会話ができるというシステムらしい。  人気のないロビーまで歩いて、私は受話器を手に取った。 「もしもし、鮮花?」  もう聞き馴な染じんでしまった男の声がしてくる。  電話の相手はやっぱり黒桐幹也だった。 「鮮花は留守だぜ。新年早々電話するなんて、妹思いなんだな、おまえって」  なぜだか、私はわざと冷たい声でそんな事を言っていた。  電話の向こうの幹也は、う、と言葉を呑み込んでいる。 「……式、なんで君が電話にでるのさ」 「鮮花がいないからだって言ったろ。あいつ、朝から張りきってるみたいだからな。早くカタをつけて家に帰りたいみたいだぜ」 「……そうかな。鮮花はあんまり家にいても楽しそうじゃないよ。寮のほうが気楽だって言ってるし」 「気楽だからって満足してるってワケでもないだろ、あいつの場合」  私の言葉の意味も解らず、幹也は首をかしげているようだ。……まあ、解らないのならいい。 「それで用件はなに、幹也」 「別に。調子はどうかなって」 「知らないよ。明日あたり電話をかけて、鮮花本人に訊けばいいんだ。じゃあな」 「じゃあな、ってちょっと待った、まだ一分も話してないじゃないか、式!」  慌てる幹也の声が受話器から耳に響く。  ふとガラスに映った自分の姿を見ると、私は受話器を手に持ったまま、かすかに顔をしかめていた。  ……なぜだか、すごく怒っているような顔つきだ。 「これは鮮花宛ての電話だろ。オレと話をするコトなんてないじゃないか」 「そんなのあります。本当は式が何してるか心配でかけたんだから、もう少し話をしよう。そもそもね、礼園に電話をかけるには鮮花宛てにするしかないんだ。そこらへんの話、鮮花から聞いてない?」  ……聞いてはいたけど、私は応えなかった。 「いい。オレ、電話ってよく分からないから、話をするのイヤなんだ」 「……そっか。そういえばそうだね。なら仕方ない、今日はこれでさよならだ。礼園って一日に一回しか電話を取り次いでくれないから」  残念そうに幹也は言う。  ……そっか、今日はさよならなのか。 「待て幹也。暇ひまなら一つ、頼み事をしてやる。ここじゃ判らないだろうから、外で調べてみてくれないか。葉山英雄っていう礼園のもと教師と、玄霧皐月っていう教師の事だ。ここに勤める前の経歴とか、遡れるか?」 「───どうだろう。やってみない事にはなんとも」  それは幹也なりの承諾の表現だ。 「別にそう重要な事じゃないから、判らなくてもいい。言っておくけど無理はするなよ。じゃあ、一人で歩き回ってる鮮花を捜さないといけないから、切るよ」 「ああ、待って。こっちからも一つ頼み事があるんだ。礼園の生徒に橘佳織って子がいたと思うんだけど、その子の成績を調べておいてくれないかな。体育の出席率とか、そのヘン。礼園って資料を書類だけでまとめてるから、外からじゃ入手しようがなくて困ってたんだ」  ……? 思いもしなかった事を幹也は口にする。  わけが解らなかったけれど、何か意味があるのだろう。 「わかった。余裕があったらやっとくよ」  言って、私はがちゃりと受話器を置いた。 忘却録音/4  お眠りなさい黒桐さん。  虚ろな眠りの中で、貴女の嘆きを再生してあげるから───。  そう、黄路美沙夜が耳元で囁く。  わたしは夢とも眠りともつかない曖昧な微睡まどろみにいて、瞳を閉じたまま何かを見つめていた。  ゆめのようなユメの途中、わたしは、ずっと永遠を見つめている──────。 … 〝そんなのはイヤ。わたしは特別でありたいの〟  ……ちいさなこどもの頃、わたしは父にそう告げた事がある。  あれはいつだっただろう。とても遠くて、もう父の顔も自分の姿も思い出せないぐらい、ずっとずっと遥かな出来事。  物心がついた時から、黒桐鮮花はただ一つという言葉に憧れていた。それは呪縛と変わらないものだったけれど、わたし自身、そういう在あり方しか愛せなかった。  どうしてなのかは解らない。  ただ、わたしは周りの人々みたいに生きるのがイヤだった。  当たり前に目覚めて、当たり前に暮らして、当たり前に眠るという事を軽蔑していたと思う。  わたしはわたしだけ。  だから、誰とも違うものにならないといけない。  そんな思いだけを漠然と抱いていたこどもは、何が特別であるかもよく解らないで、ただ周りより優れている事だけが〝違うこと〟だと信じてしまった。  早くおとなになろうとして、無邪気である事が許されるわずかな幼年期を捨てさった。  無理遣りに成長させた知識を自分だけの秘密にして、周囲には普通のこどもと思わせて欺あざむいた。  そうする事で、わたしは同じ年ごろのこども達より特別になった。  天才ともてはやされたかったわけじゃないし、優等生だなんて思われたくもなかった。だって、そんなのは特別じゃない。わたしが成らなければいけないものは、言葉には表せない〝違うもの〟だって識っていたから。  一番でなくてもいい。  一番弱い人間でだってかまわない。  わたしは、ただ、特別なものになりたかっただけ。  そうして色々なものを切り捨てて、わたしは少しずつ周りとズレはじめた。手に入れた知識で近寄る人たちを傷つけて、遠ざけて、恐がらせた。  嬉しくて、わたしはもっと余分なものを捨てていく。  友達や先生はもちろん、両親でさえわたしを敬遠しだして、わたしはようやく落ち着ける自分を手に入れた。  あの時、黒桐鮮花わたしを支配していた感覚は無だった。  まだ元に戻ったというわけではないけれど、わたしは生まれる前の素の位置に近付きつつある───そんな感覚。  それが間違っているなんて、こどものわたしには判らない。ただ気持ちのいい事だから、それに善悪があるなんて考えもしなかった。  あのまま進んでいたら、確かにわたしは違うものになっていたんだ。ダレカとは違うもの。ダレカとは暮らせないもの。……ダレカを、傷つけるだけのモノに。  けど、それがとても損をしている事だと気がついた。  正義の味方とか白馬に乗った王子が劇的にやってきて、わたしを諭さとしたわけではない。なんとなく、すごく自然に、わたしはもっと楽しい事を落としてきたんだ、と後悔できた。 〝……なにやってるんだ、あざか。ひとりで遊んでもつまんないだろ。早くうちに帰ろう。もうこんな時間じゃないか〟  そう言って、いつもわたしを迎えにくる少年がいた。  いつも、わたしはひとりだった。そのほうが楽しかったから、迎えにくる少年をわたしは嫌っていた。もっと酷いことに、歳相応の少年らしさしかないその人間を軽蔑さえしていた。  けど、いつだって少年は迎えにきてくれた。  両親でさえ話しかけないわたしに、本当に自然に笑いかけてくる。  そこに打算はなかった。少年は損得抜きでわたしに話しかけてくる。そのたびに頭が悪いな、と内心で軽蔑するのに、少年はそんなのおかまいなしで手を握って、わたしを家まで引っ張っていく。  それは兄という立場だから採った行為なのだろうけれど、きっと、少年はわたしが違う家の子でもそうしたと思う。  わたしは、特別である事を望んだ。  彼は、ただ、そこにいるだけだった。  ちくりと胸が痛んだけれど、でも、やっぱりわたしは変わらないままで毎日を浪費するのだ。  それが変わったのは、どうしてだろう。  気がつけば、わたしはその少年を目で追うようになっていた。  例えば、犬に襲われそうなところを助けてくれたとか、両親に怒られた時に庇かばってもらったとか、川で溺おぼれて死にそうな時に手を差し伸べてくれたとか、そういう事は一切ない。  何の理由もなく、わたしは兄を愛していた。  人間的に好みだから? けど、周りに壁を作っていたわたしが、そもそも人を好きになるわけはない。  本当に理由もなく、ある朝に目覚めたら、わたしは兄に恋をしていたのだ。  その時、わたしは兄である少年を憎んだ。  特別であろうとするわたしが、なんであんな平凡な相手に恋愛感情を持たなくちゃいけないんだって、その理不尽さに怒りさえした。  だけど、こればっかりはどうしようもない。  いくら否定しようにもわたしは少年をずっと観察している。ひとりで遊びにいって、夕暮れまで待ちぼうけをして、迎えにきてもらう事を糧かてにしていた。  軽蔑していた笑顔は、やっぱり軽蔑するほど考えなしのこどもの物なのに、その反面でわたしは淋しかった。  ────あたりまえに目覚めて。  ────あたりまえに暮らして。  ────あたりまえに眠って。  そんな生活をわたしは嫌悪していた。けど違ったんだ。  ……何度、わたしは兄に謝ろうとしただろう。黒桐鮮花は長いこと兄にひどい仕打ちをしていて、ごめんなさいの一言も言えなかった。  ……でも、もう口にはできない。  わたしは、そういう生活が、ずっと恐かっただけなの。  それに気付かせてくれてありがとう、お兄ちゃん。  ……そんな台詞、無邪気だった幼年期を捨てたわたしには口にできない。  ……けど、と思う。いったい、兄はわたしに何をしてくれたんだろう。  幹也がはっきりとわたしを負かしたわけでもない。  幹也がわたしに説教をしたわけでもない。  第一そんなの、わたしだったら論破して逆に言い伏せていたに違いないんだ。  理由のない心変わりと、発端のない愛情。  気がつけば強く愛しているという事実だけがあった。  ───いや。  きっと、理由はある筈なんだ。わたしが忘れているだけで、なにかとても大切なことをなくしている。  なら、思い出さないといけない。  わたしがわたしを信じられるように。  この恋慕が確かなものだと誓えるように。  そうすれば、きっと───鮮花は、生まれて初めてごめんなさいと言えるんだ。  すごく不器用な口ぶりになるだろうけど、でも本当に素直な心で、お兄ちゃんに謝れるから─── … 「起きろ鮮花。風邪ひくぞ」  聞き慣れた声が、男性のようなイントネーションで聞こえてきて、わたしはゆっくりと目を開けた。  誰かがわたしを抱き起こして、顔を覗き込んでいる。  腰には冷たくて、硬い感触。  廊下で眠ってしまったわたしを、誰かが起こしてくれているのだとおぼろげに理解できた。 「幹───」  途中まで名前を言いかけた時、相手が黒髪の女と判って口を塞ふさいだ。  わたしと女……両儀式は、お互いに無言で見つめ合う。 「……………」  式は、唐突に手を離した。  彼女に抱えられていたわたしの上半身は、それでバタンと床に打ち付けられる。 「い、いきなり何するのよ、ばか!」  思いっきり背中を廊下に打ち付けて、わたしはたまらず立ち上がる。  式は感情のない目でこちらを一いち瞥べつすると、目が覚めたろ、なんてどうでもいい言い訳を口にした。 「ええ、覚めたわ。覚めましたとも。おかげでどんな夢を見てたか忘れるぐらい、爽快な覚醒だったわ!」 「なんだ。またやられたのか、おまえ」  言われて、わたしは思い出した。  黄路美沙夜との会話。その後の出来事。  妖精を摑まえて、その後に隙をつかれてあっさりと眠らされて、こうして式と話しているという事。 「……あれ、おかしいな。やられたのは事実だけど、今度はもってかれてないみたい。わたし、記憶は鮮明だもの」 「じゃあ妖精使いを見たんだな」  ええ、とわたしは頷く。  拍子抜けといえば拍子抜けだけど、今回の事件の首謀者ははっきりした。ふと腕時計を見てみると、時間はあれから数分と経っていない。  おそらく、彼女はわたしをここでどうにかするつもりだった。けどその前に式がやってきたので撤退した、という所だろう。わたしは知らぬ間に、両儀式に助けられたということか。 「……ありがと、式」  式が聞きとれないように早口で小さく言っておく。そうして、わたしは今回の主犯が黄路美沙夜だという事を告げた。 「黄路美沙夜って、昨日の背の高い女?」 「そう。ついさっきまでやりあってたけど、式が来たから逃げ出したみたい」  そっか、と式は頷く。けれど彼女は指を口元にあてて、なんだかしっくりいかない様子だった。 「どうしたの、式。なにか腑ふに落ちない点でもあるの?」 「だって、あいつ自身も忘れてるのに」  式は訳のわからない事を口にする。  ……けど、それは何か、とても意味のある単語だ。  美沙夜自身も忘れている。それは、つまり…… 「ま、いいか。人間なら物忘れの一つや二つはあるさ。それより鮮花。幹也から電話があった。なんでも橘佳織とかいう女の成績を調べてみろってさ」 「────え?」  式の台詞は、わたしの中途半端な思考を止めてしまうほど意外だった。  わたしは、幹也がこういった類の事件に関わるのは許せない。  彼は夏におかしな幽霊事件に関わって、三週間ばかり眠り続けた事がある。幸い幹也は一人暮らしだから両親には知られなかったし、昏睡していた身体の管理は橙子師が行なってくれたから良かったものの、橙子師がいなかったら三日ほどで命を落としていただろう。  それ以来、わたしは幹也がつまらない厄やつ介かい事に関わらないようにと目を光らせている。……始末の悪い事にあの男はこういう事にだけは物凄くカンが働いて、去年の十一月だって寮の火事の事で色々と勘繰っていたりしたのだ。  なので、わたしは今回の事件について幹也に一言も話していない。橙子師にも秘密は厳守させた。なのに、どうしてこんな絶妙のタイミングで連絡をいれてきて、あまつさえ橘佳織の成績を調べろ、なんて言ってくるんだろう? いったい幹也は誰から今回の話を─── 「……そっか。考えるまでもなかった。元凶はいつだってあんただものね、式」 「なんだよ。居ないおまえが悪いんだ。あの様子じゃ明日もかけてくるだろうから、昼すぎは自分の部屋で待ってればいいだろ」  そういう事ではないのだが、そういえばそれも横取りされたのかと気がついて、式を睨む目がよけい厳しくなってしまった。  式はわたしの視線を気にもしないで話を続ける。 「幹也が言うには体育の出席率が重要らしいぜ。どう思う、鮮花。オレにはあいつの考えなんてさっぱりだ」 「体育の出席率?」  なんだろ、それ。新手の暗号かしら、なんてとぼけた時、脳裏に稲妻めいた閃ひらめきがあった。  黄路美沙夜は言った。橘佳織は火事に巻き込まれて死んだのではない。彼女は自殺したのだと。  重要な事をわたしは聞き逃し、核心となる事実を黄路美沙夜は口にしなかった。  それは橘佳織の──── 「……自殺の、理由」  口にして、わたしは駆け出していた。  火事で半壊している旧学生寮を飛び出して、森の中を全力で走り抜ける。  何かに取とり憑つかれたようにわたしは走った。  行くべき場所は決まっている。  生徒の健康状態を調べる為には、カルテが保管されている保健室に行くしかないのだから。  そうして、わたしは橘佳織の健康診断書と、保健室の使用記録を発見した。  九月から体育はすべて見学。十月からは欠席が目立ち、あの火事が起きる一週間前からは一度も登校していない。  念の為に保健のシスターに尋ねてみると、案の定彼女はある相談をしていたという。これで伏せられていたカードはすべて開いたな、とわたしは暗い心持ちで確信できた。 /4  日が落ちて、校内にちらほらといた生徒達が各々の自室に戻っていく。礼園の寮の門限は午後の六時までで、それ以降、生徒に自由なんてものはない。  私と鮮花は食堂で寮生達による合同の食事を終えて、自分たちの部屋に戻ってきた。  窓の外はとうに暗い夜の闇に包まれている。聞こえてくる音は風にゆれる木々の音だけで、寮舎は寒気がするぐらい寂さびしい雰囲気だ。  そういう所だけなら私は気に入っていて、全寮制でなければ本当に転入してもいいとさえ思っていた。真っ当な高校はとにかく煩うるさすぎるのだ。  そんな事を考えながらベッドに腰を下ろす。  鮮花はきちんとドアの鍵を締めると、長い髪をなびかせてくるりと振り返った。 「式。隠しているもの、あるでしょ」  人差し指をたてて、鮮花はこちらを見つめてくる。 「隠しているものなんてない。おまえのほうこそオレに黙ってるコトがあるだろ」 「わたしが言ってるのは物質的な物です。いいから四の五の言わず、さっき食堂でちょっぱったナイフをだせっていってるの!」  喧けん嘩か腰で鮮花は言った。  ……驚いた。鮮花の言うとおり、私はさっき食堂で出されていたパン切り用のナイフをこっそり服の袖そでに忍ばせていたのだ。  けれどアレに気付いた奴がいるなんて、私の暗器術も錆び付いてしまったらしい。最近は堂々と帯刀していたから武器を隠す事に慣れていなかったとはいえ、素しろ人うとの鮮花に見破られるなんて、ひどい堕落ぶりだ。 「あんなの、たかだか食事用のナイフだろ。鮮花が気にするほどのことじゃない」  見破られた事実からか、私は拗ねたような口調で返答していた。  鮮花は私の言い分など聞かずに詰め寄ってくる。 「だめよ。たとえ刃のないナイフでも、あんたが持つとダムダム弾なみの凶器になるんだから。礼園で人死に沙汰なんて起こされちゃたまらないわ」 「なにをいまさら。もう二人も死んでるんだぜ、気にするような体てい裁さいなんてとっくに消えちまってるだろ」 「いえ、殺人事件と死亡事故は別物です。さ、早くナイフを出しなさい。私達の役目は原因の究明であって解決じゃないんだから」 「……噓つけ。すっかりやる気のくせに」  断固としてナイフを手放す気のない私は、詰め寄ってくる鮮花を見つめ返す。  ……私だっていたずらにナイフを持っているわけじゃない。鮮花には告げていないが、今朝目覚める前、私にもおかしな感覚があった。  眠りについてる私の意識と同化してきたアレが妖精というものなのかは知らない。ただ、次があるのなら逃がさない。そのための武器としてのナイフだし、礼園の食器のデザインはすべて凝こっていて、気に入っていた。帰ったらこのナイフは鑑賞用として大事に保管するって、決めた。  私がそうやって沈黙している中、鮮花はもう目前にまで寄ってきていた。 「どうしても渡さないつもりね、式」 「うるさいな、しつこいぞおまえ。そんなんだから幹也に約束をすっぽかされるんだ」  数日前の元旦の出来事を私は口にする。  けど、それは鮮花の感情を荒立てるだけのものだったようだ。……なにか、まずい。  目の前にいる鮮花の目は、さあ、と引いていく波のように感情をなくしていく。 「───わかりました。わたし、実力行使にでます」  恐い声でそう呟くと、彼女は私にのしかかってきた。ベッドに腰を下ろしていた私は、覆いかぶさってくる鮮花を避けられない。  私と鮮花は、そのままベッドにもつれながら倒れこんだ。  ……結果として、ナイフは鮮花に奪われてしまった。  表向き可愛らしい外見をしているが、鮮花はかなり怒りやすい。そんな彼女が本当に怒るとものすごい暴れようで、手負いのクマか何かを連想させるほどだ。  獣けものを大人しくさせるには言葉も反撃も無意味か、と判断した私は仕方なく隠していたナイフをひとつ差し出して、害のない取っ組み合いを終わらせた。  鮮花はナイフを持って自分の机へと歩いていく。私はというと、ベッドの上で横になったままだった。 「……このばか力。みろこの腕、真っ赤なアザができてやがる。おまえ、普段なに食べて生きてるんだ」 「失礼ですね、ささやかなパンと新鮮な野菜だけです」  鮮花はこっちに振り返りもしないで机にナイフを仕舞う。と、そのままカギをかけてしまった。  私はベッドに腰をかけなおして、彼女の背中を見つめてみる。  よせばいいのに、なんとなく思った事が口にでた。 「でも意外だ。本当におまえって運動神経がいいんだな。これなら十分幹也を押し倒せるんじゃないか、鮮花」  とたん、鮮花の顔が真っ赤になる。後ろ姿でそうと判るのは、耳まで赤く染まっていたからだ。  な、な、な、と声を呑み込みながら鮮花は振り返る。  やっぱり彼女は赤面していた。 「な、なにを、言い出すのよ、あんたは」 「別に。他意はないよ。ただそう思っただけのこと」  ……問題はそう思った理由なのだろうけど、私はそれを深く追及するのをやめておいた。  鮮花は赤面したままこちらを見据えている。私は、どことなく無関心な瞳でそれを見返していた。  時計の秒針の音が百回ほど繰り返された頃、鮮花は、はあ、と深く息をついて口を開けた。 「───やっぱり、わかる?」 「さあ、どうだか。知っていたのはオレじゃないから。少なくとも当の本人は気付いてないから、それでいいんじゃないか?」  そう、と鮮花は安心したように胸を撫で下ろした。  ……彼女が黒桐幹也に恋愛感情を持っていると知っていたのは、私ではない。  昔、鮮花と初めて会った時にいた織が一目で看破しただけだ。式は織づてにそれを知っただけ。  その知識がなければ、私だって気がつかなかっただろう。彼女が幹也に対してだけ厳しい対応をする理由も、彼がいない所では自分に言い聞かせるように兄という単語を使わないのも。  鮮花は元通りの冷静さを取り戻すと、今度は逆に私をじろりと睨んできた。 「けどあたまにくるなぁ。それって余裕、式?」  わけのわからない事で鮮花は難癖をつけてくる。  私は理解不能な質問に、ひとり首をかしげた。 「わたしにとられてもいいのかってこと。ほんと、あったまくるなぁ」  じれったそうに鮮花は同じ台詞を繰り返す。  けど、とられるって誰をだろう。話の流れからいって幹也の事か。でも、アレは私の物じゃない。アレは、そう。悔しいけれど式という私の物ではなくて───いけない。その先は、考えてはいけない事だ。  不意に背筋に怖れが走って、私は思考を止めた。 「……鮮花はさ、なんであんなのがいいんだよ。兄妹だろ、おまえ達って」  自分を誤魔化すためにイヤな質問を私はする。  鮮花はそうね、と視線を泳がせて答えた。 「白状するとね、式。わたしって特別なものが好きなの。っていうより、禁きん忌きと呼ばれるものに惹かれる質みたいなんだ。だから幹也が兄である事に問題はないのよ。あるのはあっちだけで、わたしにはむしろ喜ばしい事だわ。好きな相手が近親なんて、幸運なことだって思ってるし」  あくまで冷静な趣おもむきで鮮花はとんでもない事を口にした。  ……つくづく。あの男は、おかしなヤツに好かれる傾向にあるみたいだ。 「この、ヘンタイ」 「なによ、異常者」  ほぼ同じタイミングで、私と鮮花は互いを罵ののしりあう。それは嫌悪や軽蔑を含まない、本当に素直な意見の言い合いだった。 …  鮮花は明日早くから調べる事があるから、と早々に眠ってしまった。  私はというと、普段が夜行性なだけあって簡単には眠りにつけない。  時計の針が二時をすぎても眠気はやってこないので、ただぼんやりと窓の外の景色を見つめていた。  外には明かりもなく、深い木々の闇やみだけがある。  森の中には月の明かりさえ届かず、この寮舎は深海のように静かだ。  私は食堂で手に入れたナイフを片手でもてあそびながら、森と闇とを眺める。  食堂で手に入れたナイフは二本。一本はここで使う為に、一本は持ちかえる為に入手したのに、鑑賞用の方は鮮花にとられてしまった。  こうなると残った一本が使われない事を願うだけだが、やはりそれは叶かないそうにない。 「今夜はずいぶんと忙いそがしいじゃないか、おまえ達」  窓の外の景色を見て、私はひとり呟く。  暗い礼園の夜の中、ホタルのように灯るモノが無数に飛びかっている。十や二十ではきかない。昨夜は一、二匹程度だったのに、今夜にかぎって妖精とやらは活発に動き回っている。  鮮花と私が事件をかぎまわっている為だろう。妖精使いは予定を急激に早めたようだ。 「これじゃあ使わないなんてコト、できそうにない」  鈍く月光を照り返すナイフを見つめて、私はそんな言葉を漏らす。  礼園で夜を過ごすのは今日かぎりだ。どのような結果になろうと、決着が明日になるのは明白な事なのだから。 Oblivion Recorder 5/ ◇  私は言った。 「もう、どうしていいかわかりません」  彼は答える。 「まだ手段はあるでしょう。壊れてしまったモノは直せばいいのです」  私は言った。 「けれど、私には直せない」  彼は答える。 「造り直すのは私が受け持ちましょう。あなたには罪はない。キレイなモノは、汚いモノに触れる必要はないのです。あなたはそのままでいるのがいい」  私は言った。 「……私は綺麗なんでしょうか。そうであるように生きてきましたが、今は自信がないのです」  彼は答える。 「あなたは汚けがれてはいません。自身に芽生えた昏くらい感情を抑えきれないとしても、その手は未だ白いままです」  彼は頷き───優しく笑った。 「自分の手は綺麗なままでなければいけない。この世界に、あのような汚れはあってはいけない。汚れには汚れ自身で消えていただくのが最良です。どんな人間でも、汚れを消そうとすればその汚れを受け継いでしまう。この不浄なる循環を、私達は呪いと言うのです」  汚れないために、私以外の何かを使えばいいと彼は言う。  私は言わない。  だって、それでも、結果としては─────  彼は答える。 「永遠は還さないといけない。その嘆きを再生します。たとえ君が忘れ却ろうとも。記憶は、たしかに君に録音されているのだから」  私は言った。 「私に、忘れている事などありません」  彼は答える。 「忘却は意識できない欠落です。人には忘れていない事などない」  ───なら、私の記憶の断絶とはなんだろう。 「わかりません。私の欠けた部分とはなんでしょう」  彼は答える。 「それは兄への幻想です。あなたが望むというのならば。その欠落を再生してあげましょう」  私は、それにイエスと答えた。 ◇  一月六日、水曜日。  空は相変わらず灰色の雲に覆われていて、天気は曇りのままだった。 「……しちじ、はん」  眠りから目覚めて時間を確認する。……信じられない事に、このわたしが一時間も寝過ごしてしまっていた。  あわててベッドから起きて、寝巻きから制服に着替える。  二段ベッドの上で眠っている式に声をかけてみたけど、彼女はまったく目を覚まさない。昨日の夜は遅くまで起きていたようで、式は寝巻きに着替えず制服のままで眠っていた。  寒いのも暑いのも平気、という式は毛布一枚でこんこんと眠っている。その様は彫刻か何かのように静かで、わたしは起こす事を諦あきらめた。  もともとわたし達の役割は原因の究明なんだ。昨日、黄路美沙夜とやりあった後に彼女を訪ねなかったのはその必要がないからである。事件の犯人が判っても、わたしと式はその犯人を捕まえる必要なんてないのだから。  ……もっとも、わたしだって黄路美沙夜が素直に寮に居るとは思っていないし、実際に彼女は昨日から帰宅の為に外出届をマザーに提出していた。つまり、書類の上では昨日の朝から黄路美沙夜は礼園の敷地内にはいない事になっている。  その事から見ても、彼女はもうわたしと接触する気はないと思う。  ……けど、頭はいいクセにどこか激情家みたいな彼女は、わたしの懐柔をまだ諦めていないかもしれない。  一昨日の昼と昨日の昼、二度にわたってこちらに接触してきた黄路美沙夜は、結局のところどちらも式に邪魔をされて結果を出していない。今日、正体を知られたうえで襲ってくるとは考えにくいが、三度目の正直という事もある。用心のために火トカゲの皮で作られた手袋をポケットに仕舞って、わたしは部屋を後にした。  冷凍庫みたいに冷えた寮の廊下を歩いて、一年四組の生徒の部屋をいくつか訪ねた。けれど大半の生徒は留守で、たまに自室に残っている生徒達も会話の相手にはならなかった。  彼女達は息遣いも荒く、目の焦点も確かではなくて、麻薬中毒者さながらの様子だったからだ。  仇か何かを見るような目付きで睨まれては、まともな話が出来るとは思えない。  式なら睨み返してでも話を聞くのだろうけど、わたしはそんな非効率的な事はしない。  一年四組の生徒と話をするのは諦める。  話を聞く相手は生徒だけじゃない、とわたしは寮から出て校舎に移動した。  浪費した時間を取り戻すように、手早くシスター達から必要な事を訊き出して、もう一度寮へと戻る。手に入れた情報を整理する為に自分の部屋に戻ると、式はまだ眠っていた。  ……すこしカチンときたけど、『目』に考える事を期待するこっちが浅はかなんでしょう、ええ、と思いとどまって、椅子に腰をかけた。  ───さて。  昨日保健室で調べた資料から、橘佳織がどんな状況だったかは予想がついていた。  体育の授業を見学するのは、別にたいした事じゃない。生理が重なったのなら仕方のない事だとシスターも認めてくれるから、礼園では体育を見学するのはわりと簡単な部類にはいる。  重要視するべきなのは体育の見学が多い、という事ではなく、彼女の健康診断と見学の日を照らし合わせる事だ。  他の高校ではどうなのか知らないけれど、礼園では生徒の生理の間隔だってきちんとリストされている。それによると、橘佳織は本来ありえない曜日に生理だといって体育を見学していた。  この不自然さは彼女の言い分とは逆の事実を連想させる。  シスターを問い詰めてみると、彼女はたしかに十月あたりに生理が遅れている、と相談をしにきたらしい。シスターはストレスによる一時的な体の変調でしょう、と安心させたというけど、それは事情を知らないシスターが口にした当たり前の返答だ。  まだ憶測の域を出ないが、橘佳織は生理が遅れていたんじゃなくて、生理がきていなかったんじゃないか。  ……まあ、ようするに、なんというか、その、妊娠していたんじゃないかってコト。もしそうだとしたら、それは十分すぎるほどの自殺の理由になる。  初めはただ生理がこないだけの不安だろうけれど、お腹の中の胎児は日増しにその存在感を増していく。九月から三ヵ月近くたった十一月には、彼女の精神はどうしようもない所まで追い込まれていたんじゃないだろうか。  ……礼園で妊娠するなんて、それは誰かを殺すコトよりもっと背徳的な行為だ。外に出れないはずの生徒が、校則をやぶって街に出て性交の末に子供を身籠もる、なんてマザーやシスターが聞いたら卒倒するどころの話じゃない。  橘佳織本人への軽蔑はもちろん、彼女の両親だって娘を許しはしないだろう。  コトの発覚を怖れて日々を過ごす橘佳織には、けれど解決策というものがない。堕胎するには病院に行かなければいけない。街に出るだけならともかく、医者にかかるのならどうしても学園に連絡がいってしまう。初等部から礼園の生徒だった彼女が医師免許のないもぐりの闇医なんて知っているわけもなく、彼女はいずれ膨らんでいくお腹に怯えながら、死し刑けい囚しゆうのような毎日を送っていた。  わたしは橘佳織と面識がないからなんとも言えないけれど、それは自業自得なのか。……いや、黄路美沙夜の口振りからして橘佳織は校則を破るような娘ではなさそうだ。  なら───── 「寮内で襲われたってコトでしょうね。……相手は葉山かな、やっぱり」  それなら、なんとなく辻つじ褄つまは合う。  橘佳織と性交して彼女を妊娠させてしまった葉山英雄は、妊娠三ヵ月になった佳織という証拠を消すために寮に火を放った、とか。  ……あんまりにも大おお雑ざつ把ぱな考えだけど、話の本筋はだいたいそんなモノかな、とわたしは一人で頷いてみたりした。  けど、ひとつ引っ掛かる部分がある。  橘佳織の相談をうけたシスターはストレスのせいだ、と言った。それが意味のない説明とは思えない。シスター達は、橘佳織がストレスを抱くような環境にあると知っていたのではないか。  それも教師である彼女達にも感じられて、かつ、口出しできないストレス。  一年四組の生徒たちがそろって隠している何か。 「───いじめ、かな」  呟いてみて、なんとなく近い気がした。  もともと一年四組の生徒は高校から入学してきた生徒ばかりだという。生粋のクリスチャンである橘佳織とは合わない所もあったのだろう。けど、四組の委員長は紺野文緒だ。あのさっぱりした性格の彼女が、そんなつまらない事を傍観しているとは思えない。  橘佳織がクラスから迫害をうけるとしたら、それ相応の理由が必要のはずだ。  たとえば、そう。 「クラスに、妊娠している事が知られたか」  これなら話は符合する。  妊娠するような行為をした橘佳織を迫害する四組の生徒達。理由が理由なだけにシスターにも相談できない佳織と、やっぱり自業自得と傍観する紺野文緒。  その結果、自殺してしまった佳織に負い目があって、クラス共通の秘密として彼女達は事実を黙っている── 「でも───それじゃあ話が合わないよね」  ひとり頷いてみたけど、どこが合わないのかわたしはてんで見当がつかなかった。  断片的な情報と直感だけで話を構成するのは簡単だけど、それを真実として断定できる根拠を捜し当てる作業は苦手だ。  こういうのは、とにかく幹也が抜群に向いている。  しいて言うならわたしは突飛な発想でトリックを言いあてる探偵で、幹也は堅実な捜査で確実に犯人を逮捕する刑事だと思う。  わたしは、よくある探偵小説で頭の硬い刑事たちを嘲あざ笑わらって鮮やかに犯人を言いあてる探偵というヤツが嫌いだ。  所詮推測にしかすぎない事をただ〝可能だから〟という理由だけで推理と称して、常人を超越した頭の良さをみせつけて犯人を言いあてる。  当たり前の捜査しか出来ずに犯人を捕まえられない刑事達を無能だ、と探偵は言う。でも、無能なのは探偵のほうだとわたしは思う。  刑事の作業とは、砂漠の中から一粒の宝石を見付ける事に等しい。彼らはその苦しい作業をやり通して、万人が納得できるように過去という不確定な出来事をカタチにする。なのに探偵は見てきたような口振りで自分一人だけの空想を口にして、犯人を特定する。砂漠の中から宝石を見付けるという努力を放棄して、自分だけの範囲で物事を納得させる。  ありとあらゆる状況を想定して、その全てを平等に評価しながら一つの解答を練りだしていく凡人と。  閃光のような発想を真実として、唯一無二の解答をだす天才。  たしかに、真実の多くは探偵にしか辿たどり着けない発想にあるだろう。けれど発想が貧困なのは、前者ではないと思う。観念に囚とらわれているのは後者のほうなのだから。  天才というものは、結局、自分しか相手にできない。  だから彼らは孤独と言われる。……そう、ずっと孤独。 「あれ、論点がズレちゃってる」  自分でも呆れて、わたしは椅子の背もたれに背中をあずけた。  行き詰まったのかな、と内心でため息をついて時計を見る。  時刻は正午になろうとしていた。  窓の外の天気は曇ったままだ。  いずれ雨でも降るのだろうか、と思ったとき、部屋の扉がノックされた。 「黒桐さん、おられますか?」  聞き慣れたシスターの声。 「はい。在室していますが、何でしょう?」  答えながら扉を開ける。ノックの相手はやっぱりシスターで、彼女はわたしに電話が掛かっていると告げた。それが幹也からのものと即座に思い当たって、わたしは足早にロビーへと向かった。  閑散としたロビーまで歩いて、わたしは受話器を手に取った。 「もしもし、式?」  幼いころから聞き馴染んだ男性の声がしてくる。  電話の相手はやっぱり黒桐幹也だった。 「式はまだ睡眠中です。わざわざ礼園にまで電話をかけてくるなんて、恋人思いなんですね、兄さんって」  あえて冷たい声で言っていた。  電話の向こうの幹也は、う、と言葉を呑み込んでいる。 「別にそういうワケで電話したんじゃないぞ。事件のなりゆきが心配だから連絡してるんだ」 「そんなのは余計な心配です。わたし、以前に言いましたよね。兄さんにはこういった類の出来事に関わってほしくないって」 「そりゃあ、こっちだって関わりたくはないよ。でも仕方ないだろう。おまえや式が首をつっこむから、無視するわけにもいかないんだ」  わたしとしては無視してもらっておおいに結構なんだけど、なんとなく今の言葉はジーンときたので文句を言うのは止めておいた。  ……我ながら幻滅する。わたしって、半端なところで現金なんだ。 「それで用件はなに? 式宛て、それとも私宛てですか?」 「依頼は式からだけど、報告するのなら鮮花のほうが適任かな。葉山英雄と玄霧皐月について調べた結果だけど、聞く?」  え、とわたしは言葉を呑み込んだ。  幹也から橘佳織について調べなさい、という指示があったのは聞いていたけど、式のほうからもそんな調べ事を任していたなんて聞いていない。  ほんと、式の考えなしの行動にはカチンとくる。 「───へえ、式がそんな事を頼んでいたんですか。兄さんには危険な真似はさせるなってあれほど言ってるのに、懲こりてないみたいですね。きっと、あの人は兄さんの身の心配なんてしてないんです。だからそんな危なっかしい調査を押しつける。兄さんも、いい加減あんな女とは手を切るべきです」  憮ぶ然ぜんとしたわたしの台詞も、幹也には通用しなかったみたいだ。  彼はあはは、なんて笑って答えてくる。 「そうだね。式の心配の仕方は、みんなよりかなり曲がってるからね」  ……まったく、なにが楽しいのか電話の声は嬉しそうだ。  わたしはあたまにきて、幹也が調べたという葉山英雄の情報を催促した。受話器の向こうでぱらり、とファイルのページをめくる音がする。どうもかなりの量があるらしく、資料をファイル形式にまとめてあるのだろう。  ……と、いう事はそこいらの公衆電話や携帯電話からかけてきているのではなさそうだ。 「あれ? 兄さん、今どこにいるんですか?」 「会社の事務所。橙子さんは秋あき巳み刑事とお出かけ中」  むっとした声で幹也は言う。  わたしも、その事実には少しばかり動揺した。 「秋巳刑事って───その、大だい輔すけさんの事!?」  ああ、と拗すねたふうな趣で幹也は頷いた。  秋巳大輔というのは、わたしの父の弟で警視庁の刑事をしている人物だ。父の弟の中では末っ子で、わたし達にとっては兄のような存在と言える。とりわけ大輔さんは幹也がお気にいりで、このふたりに関しては本当に兄弟なんじゃないかって思うぐらいに仲がいい。 「なんでもさ、橙子さんの知り合いの刑事って大輔兄さんのコトなんだって。正月に大輔兄さんに会社の所長のコトを話したら、そりゃあ蒼崎橙子じゃねえか、なんて叫んでさ。それで、今日は弟をダシにして橙子さんとデートってわけ。黒桐の叔父の誘いは断れまい、なんていって出かける所長も所長」  何が気に食わないのか、とにかく幹也は不満そうに独り言を繰り返す。  ……橙子師の情報源の一人がうちの大輔さんだったっていうのは、まあ有り得る話だと思う。大輔さんは捜査一課でもアウトローな人だから、橙子師みたいな人と情報交換をしていてもおかしくはない。 「いいや、話を戻すよ。それで葉山英雄についてだけど、鮮花はどのくらい知ってるんだ?」  幹也の声には、こちらの心情を探る気配が感じられた。  ……そういった表に出ない心遣いをよく知っているわたしは、彼が何を危惧しているか瞬時に理解できた。 「大丈夫、心配は無用です。わたし、大抵の事には驚きません。葉山英雄っていう教諭がどんな人間だったかは知っているつもりですから」  そうか、と受話器の向こうで呟く声がした。  幹也は少しためらってから、じゃあ、と断って話をはじめる。 「───率直に言うとね、葉山英雄は礼園の生徒たちに援助交際をさせていたみたいだ。彼の担任していたクラスの生徒を外に連れ出して、そういう事をさせていたらしい」 「───え?」  あまりに突拍子もない言葉に、わたしはそんなリアクションしかとれなかった。  幹也はわたしの動揺をあえて無視して、一気に真実を報告してくる。 「実際に何をさせていたかは判らない。ただ、礼園の生徒っていう希少価値を活かすぐらいだから、あまり込み入った事はさせていなかっただろう。値をあげるなら、出し惜しみをするものだからね。生徒を外に連れ出すのも週に二回ほどで、数人しか連れ出さなかったらしい。大胆なのか慎重なのかどっちともつかない事だけど、葉山英雄はうまくやっていたんだろう。  もともと彼は繁華街では有名でね、派は手でな遊び人を気取っていたっていう話だ。その遊びも日に日に度を超えてきて、多額の借金を負ってる。そっち系統の飲み屋には大抵スポンサーがついていて、まあ、ようするに暴力団って言われる人達なんだけど、葉山はそういう連中に借金をしていた事になる。返済を迫られ、進退窮きわまった葉山英雄は疎そ遠えんにしていた兄を頼って礼園に教師として採用された。真面目に働いて借金を返す、という名目で兄を説得したんだろうけど、どうも葉山英雄は初めから礼園の生徒を連れ出して、遊ばせるのが目的だったみたいだ。  ……解るだろ。礼園の生徒っていうのは、名門女子校って事以外にも価値はあるんだ。大抵が資産家の一人娘だからさ、葉山英雄をせっついていた連中も何かと役にたつと考えたんだ。それとも、初めから目的である生徒は一人だけだったのかもしれない。そのあたりはまだ不明だけど、とにかく葉山も暴力団も味をしめてしまって、九月ごろまでには一年四組の生徒のほぼ全員が外に連れ出されている。  とりあえず、大まかな本筋はこんなところ」  そうして、幹也は葉山が連れ出していった生徒達の名前やその順番、日付、帰宅時間まで一つ一つ報告してくれた。  もちろん、葉山が関わっていた暴力団の事も細部まできちんと調べてある。 「証拠にならないのが、悔しいけどね」  と、幹也は弱々しくぼやいていた。たしかに幹也が調べあげた資料だけでは警察は動いてくれないし、生徒の両親達が止めてしまうかもしれない。  こんなの、橘佳織の妊娠スキャンダルどころじゃない。この学園そのものが無くなりかねない大事件だ。 「───ごめんな、鮮花」  葉山に関する情報を全て話し終わって、幹也はぽつりとそんな事を言った。  あまりの事実に混乱していたわたしは、それでもうん、と一度だけ深く頷いた。  でも、これで話は全てつながった。  一年四組全体が隠していた秘密というのは橘佳織の自殺の事なんかじゃなくて、この交際グループの事だったんだ。  彼女達は、はじめは葉山英雄に何らかの脅迫をうけて外に連れ出されたのかもしれない。けど、それが半年間も秘密を守って続けられたのは葉山だけの力じゃない。  幹也の話では、無理遣りに連れてこられた生徒が大半だったらしいけど、中には自分から進んで外に出る娘もいたそうだ。  彼女達は、自分の保身の為と、自分の娯楽の為にこぞって秘密を守って、葉山英雄の言いなりになっていた。  もともと中学まで普通の生活をしていた女生徒達には、ここの禁欲的な生活はそう耐えられない。彼女達にとって、葉山の脅迫はそれこそ蛇の誘惑だったのだと思う。  悪いのは葉山英雄だと言えば、彼女達自身に負い目はない。だからこそ半年間も秘密が守られた。  ……でも、彼女達だけが悪いとは言い切れない。  大元の原因は、この学園にある。  周囲を壁でかこって、病的なまでに外界と遮断した違う世界。  風も吹かず、外の音さえ聞こえない。ゆったりと流れる空気は、たしかに俗世の不浄から隔離されている証拠だ。  けれど───ここには空気の出口すらない。  流れない空気は淀よどんで、沈ちん澱でんする。ここは外界から遮断された異界なんかじゃない。異界を作るのに壁を用意してはいけないんだ。壁に覆われた世界は異世界なんかじゃなくて、ただの檻おりにすぎないのだから───。 「じゃあ、橘佳織は? なんで兄さんはその子の名前を知っていて、成績を調べろなんて言い出したんですか」  わたしは最後の疑問を口にする。 「ああ、十一月に死んだ子だね。あの頃、鮮花は寮が燃えたとかで少しだけ橙子さんの事務所にいたろ。その時に、ちょっとね。仕事以外の調べ物をしている時に、ついでだから調べておいたんだ。大輔兄さんに無理いって焼死した子の鑑識結果を見せてもらってさ。  橘佳織の死因は、どうも曖昧なんだよ。焼死だったかもしれないし、その前にすでに死んでいたかもしれない。彼女の検死結果は薬物による中毒死か火事による焼死かは判らずじまい。けど、おかしな記録が残ってた。彼女は妊娠していた可能性があるらしい。遺体は焼かれてしまったから結局真偽ははっきりしないままだけど。  ああ、かといって誰かが火事に紛れて彼女を殺した、なんて事はないと思う。死因が焼死にしろ薬物による中毒死にしろ、橘佳織が他殺された可能性は極めて低いんだ。彼女はね、クラスの中では最後に外に連れ出されている。その事から彼女が最後まで葉山英雄に抵抗したのは明白だ。本人が望まない結果として性行為をさせられ、かつ妊娠してしまったとしたら、それはどうしようもない自身の穢けがれだ。十六歳の女の子が、周りになんの助けもない状況で耐えられる事じゃない。  ……これは憶測にすぎないけど。火事の時、寮生が全て逃げ出せる状況だったのに彼女は部屋に閉じこもったんじゃないかな。死は、彼女自身の意志だったのかもしれない」  遠慮がちな幹也の言葉に、わたしはええ、と力強く肯定する。 「それが彼女の自殺の理由なんでしょう。でも───それならどうして堕胎しなかったのかな。葉山に言えば、それぐらい用意はしてくれたでしょうに」 「女の子だからね。子供を堕ろす事はできなかったんじゃないかな」  なんか偏見っぽい幹也の受け答えに、わたしはああ、と違うところで納得した。  一年四組の連中が彼女を迫害していたのはソレなんだ。いつまでも子供の堕胎を了承しない橘佳織。彼女が堕胎しないかぎり、いずれクラスの秘密がばれてしまう。そうなれば彼女達は破滅だ。葉山英雄が指示を出すまでもなく、彼女達は橘佳織を迫害していた。けれど強く暴力もふるえない。行きすぎた暴力をふるえばシスター達に異状を感付かれるし、なにより橘佳織自身が耐えきれなくなって、シスターに自分の罪もろとも懺ざん悔げしてしまうから。  ……そんな針のムシロのような状況で三ヵ月間、橘佳織は耐えてきた。  周囲からの迫害と、自身が持ってしまった消せない穢れ。  それでも人が好かったという彼女はクラスメイト達を告発できず、板挟みになって自殺してしまったのか。  なんて──── 「───弱いひと。死ぬ覚悟があったのなら、妊娠している事実だって耐えられるでしょうに。死ぬ事で全てを投げ出すなんて、完全な敗者だわ。子供の頃から礼園で暮らしているのに、外から入ってきた連中に負けるなんて」  わたしは一度も見た事のない橘佳織の人のいい笑顔を想像して、ぎり、と歯を嚙んだ。  死ぬ事でしか解決できない無意味さに、同情さえうかばない。  けど、電話越しの兄の声はそれを否定した。 「違う。───なんて辛い決断だ。僕も、今の鮮花の言葉でようやく気がついた。……前に自殺という事について考えさせられたけど、橘佳織という子に関しては世間一般の考えは当てはまらない」  まるでどこかが痛むように、苦しげに幹也は言う。  わたしには、彼がそこまで断定する意味が解らなかった。 「……? 兄さん、どうして橘佳織には世間一般でいう自殺が当てはまらないんですか。人間は辛いから自殺するんでしょう? 橘佳織だって、この現実に解決策がなくなったから死という逃避を選んだんだと思います。自殺しない人間というのは、転じて何もない人間───つまり、自殺する意味さえない人間だけだもの」  わたしの反論に、だからおまえには解らない、と幹也は言う。  それは、黄路美沙夜と同じ台詞だった。 「わたしには、解らない?」 「ああ。いま、橘佳織は初等部から礼園にいるって言ったろ。なら彼女は敬虔なクリスチャンだって事だ。いいか、鮮花。クリスチャンは自殺しない。基キリ督スト教において自殺は劫罪だ。基督教は生き抜いたすえに祝福されるのが教義なんだよ。だから、彼らにとって自殺は殺人と同じかそれ以上の劫罪になる。橘佳織は、自分の為に自殺したんじゃない。自分の為なら自殺なんて出来ないんだ、彼女は」  幹也は本当に辛そうに言う。  わたしは、声もなく息を呑み込んでいた。  ───たしかに、その教義を失念していた。輪りん廻ね転てん生しようを否定する基督教は仏教とは違って、死後の世界に救いが用意されているわけではないんだ。  それは知っていたけれど、しょせん高校から朝の礼拝儀式に参加しているだけのわたしにとって、そんな教義は英単語の一つと変わりはない。日常の常識として思考の端にさえ存在しなかった。  けど───橘佳織なら、それは自身の純潔と等しく守るべき戒律になっていただろう。おそらくは生まれた時からクリスチャンだった彼女にとって、自殺とは死より恐ろしい出来事なんだ。 「…………じゃあ、どうして彼女は自殺したっていうんですか」  考えがおよばず、わたしは同じ質問を繰り返す。  きっとその答えは、わたしには辿り着けない領域のものだ。人間として冷たいわたしは、彼女の達していた境地など予想もできない。  幹也は言った。 「贖しよく罪ざいのつもりだったんだ、たぶん。  橘佳織は自らの罪と、仲間達の罪を思って、辛かったから死んだんじゃないと思う。彼女たちの身代わりになって、一人地獄に堕ちる事でクラスメイト達の罪を贖あがなおうとしたんだろう」 「……だから」  わたしはその先を声にできず、少しの間だけ沈黙した。……だから貴女には解らない、と黄路美沙夜は言ったんだ。  彼女の怒りは本物だ。橘佳織の死の意味を誰より深く理解していた彼女は、だからこそ以前と変わらないままの一年四組の生徒達が許せなかった。 〝殺しては地獄に堕ちない〟と彼女は言った。  そう、他人の手にかかった死では地獄に堕ちる事はない。橘佳織が堕ちた場所に彼女達を陥れるには、殺人では無意味なんだ。  だから黄路美沙夜は、彼女たちが自分から死ぬように少しずつ追い詰めていた。  真綿で首を絞めるように、少しずつ少しずつ。  罪による懺悔などではなく、周囲の目から逃れるための無様な死に方を選ぶように、と。 5/  ……………冷たい雨が降っている。  寒さも暑さもあまり感じない式が、寒いと感じている。  雨の中。とても寒くて痛い雨のなか。  自分は小刀を手にして、意志のない瞳で誰かをずっと見つめている─────────────────瞬間、私は目を覚ました。  目の前の中空に『妖精』が翔んでいる。  瞼を開けるのと同時に、服の裾からナイフを取り出してソレを刺し貫いた。  だん、という音をたててナイフは壁に突き刺さった。ナイフと壁の間では、串刺しになった妖精らしきものがキイキイと声をあげている。  鮮花の話の通り、人型らしいフォルムをした生き物は、小さい手でナイフの刃を引き抜こうとする途中、力つきて溶けていった。 「……しまった。もう少し我慢してれば」  呟いて、私は口を閉ざした。  もう少し我慢していれば、何だというのか。  私が───両儀式が忘れている三年前のあの日の出来事が思い出せたとでも?  私が二年ものあいだ昏睡状態におちいった原因である交通事故。私本人の記憶にまったくないその出来事を思い出せると───? 「いい加減、頭にきたぞ」  短く文句を言って、私はベッドから飛び降りた。  小さく、床のきしむ音が廊下から聞こえてくる。それはさっきまでこの部屋の入り口に立って、中の様子をうかがっていた誰かが逃げ出す音だった。  私はナイフを裾に仕舞いなおして部屋の外に出る。  廊下は東と西にのびている。走り去る人影は東側へと消えていった。その後ろ姿は間違いなく─── 「……黄路美沙夜か。オレと鮮花を間違えた……ってワケじゃないよな」  それなら、被害を受けたのは私だ。大人しくしていろと鮮花には言われたけれど、報復ぐらいはするべきだろう。  老朽化した板張りの廊下を走って、彼女の後を追いかける。  黄路美沙夜の足は予想より速く、距離はあまり縮まらなかった。  美沙夜は迷う事なく寮舎を出ると、校舎へと向かっていく。鮮花と一緒に歩いた林の中の渡り廊下を過ぎて高等部の校舎に辿り着くと、美沙夜は校舎ではなくその横にある建物───礼拝堂へと入っていった。  罠だという事は判っている。  けれどここまで走らされて部屋に戻るのも馬鹿らしい。私は一度だけため息をついて、無造作に礼拝堂の扉を開けた。  重い扉は音一つたてない。  薄暗い礼拝堂の中に、人影は一つしかなかった。  私は扉を閉めて、その人物と向かい合う。  距離にして十メートルほど離れた場所に佇む人物は、無言で眼鏡のズレをなおすと、彫刻を観察するような目付きでこちらを見た。 「おや。こんな時間に礼拝堂に何か用ですか、両儀君」  淡い微笑を男は浮かべる。  それは柔らかで、屈くつ託たくのない子供の微笑みだ。けれど色がなくて、中身というものがない虚ろな感情でもある。  以前と同じ、ひどく乾いた笑みを浮かべて、玄霧皐月がそこにいた。 忘却録音/5 「じゃあ、次に玄霧皐月の事だけど」  受話器の向こうで、新しいファイルを取り出している音がする。  幹也は玄霧先生についても調べたらしいけれど、わたしにはどうでもいい事柄だ。  葉山英雄のやっていた事と一年四組の秘密が明らかになった今、もうやることなんてないんだ。黄路美沙夜がやろうとしている事も解った以上、橙子師に任せればこれ以上犠牲者を出す事なく事件は解決するだろう。 「いいです、兄さん。わたしと式もすぐに外出届を出して帰りますから、事務所で待っていてください」 「そう? けど、まあ聞くだけ聞くのも無駄な事じゃないと思うよ。あながち無関係とは言えないから」 「無関係とは言えない、んですか?」  うん、と幹也は頷く。  そこに感情の起伏はない。……兄がこういう口振りをする事は珍しい。それだけで、葉山英雄の事より玄霧先生に関する話のほうが重要なのだと直感した。 「まさか、玄霧先生も援交と関係があるって言うの?」 「いや、そっちの話とはまったく別の話。玄霧皐月は一年四組の事件とは関わっていない。少し話は変わるけど、鮮花は玄霧皐月がどこの生まれだか知ってるかな」  言われて、わたしは思考を巡らした。  ……名前からして日本人なんだろうけど、彼は長いこと外国に留学していたという。もしかすると両親が日本人なだけで、生まれは外国なのかもしれない。 「……よくは知りません。けどイギリスに長く居たって話だから、もしかするとそっちのほうに実家があるかもしれませんね」 「ああ、玄霧皐月はウェールズの片田舎の生まれらしい。ただ、彼は十歳の頃に養子に出されていてね、玄霧皐月という名前は養子先の両親が付けたものなんだそうだ。玄霧の姓になるのはいいとして、名前まで変えるなんておかしな話だろ」  それは───まあ、おかしいといえばおかしいと思う。  けど養子にとった親が玄霧先生を本当の息子のようにしたい、と願ったのなら、昔の両親がつけた名前を変えるぐらいはするんじゃないだろうか。……もっとも、名字の変更はともかく名前の変更なんていうのは聞いた事がないけれど。 「それでさ、当時の事を知ってる人から話を聞いたんだけど、玄霧皐月は神童扱いされるほど頭が良くて、非の打ち所のない子供だったみたいなんだ。なのに彼の両親は皐月を嫌って養子に出した。けど、養子にとりたいって人はいなかった。そんな状態がしばらく続いた後、噂を聞きつけて遠くの街の日本人が彼を養子にもらったっていう話。その後の事はあっちの学校に記録が残っているから、彼の経歴ははっきりと遡れるんだけど、養子に出される前の事がどうにも不明なんだ」  両親に嫌われて養子に出された……か。あの先生にそんな暗い過去は似合わない気がする。  ……もっとも、わたしはそんな話の内容より、当時のウェールズの事情を知っている人を見付けだした兄の手腕のほうが気になった。いったいどんな情報源をもっているんだろう、この男は。 「けど、神童とまで言われた子供を養子に出すなんて、そこまでご両親は子供を嫌っていたんでしょうか。その、本当はお金に困ってとか、そういった理由じゃなくて?」 「問題はそこなんだ。正しく言うとね、玄霧皐月が神童だったのは十歳の頃までで、それからは逆に人並み以下になってしまった。脳の障害なのかどうかは不明なんだけど、彼は十歳の頃から物事を記憶できなくなってしまったらしい。目で見た映像を記録できないっていう症状で、一時は白痴と変わらない状態だった。彼の両親はそんな息子を嫌って養子に出そうとしたんじゃないかな」 「物事を───記憶できない?」  呟いて、わたしは脳の芯がぐらりと揺らぐような感覚を味わった。玄霧先生の症状は、今回の事件とあまりにも意味合いが近すぎるから。 「でも先生は普通です。ちゃんと物事を覚えているし、知識も豊富だし。そんな症状なんて、全然感じません」 「そりゃあそうだろ。治ってなければ教員免許なんてとれないよ。ただ、そういう昔があったってこと。  そうして養子に出された玄霧皐月はもとの神童ぶりを取り戻して十四歳にして大学に入学、言語学の博士号までもらってる。将来が有望すぎた彼は、けれどそのまま一教員としてあっちの学校を転々としているんだ。今回みたいに礼園に移ってきたのは、彼にしてみればそう珍しい事じゃない。彼の勤務した学園で自殺者が出るのも、同じ」 「───いるんですね。玄霧先生が勤務した先で自殺した生徒が」 「今どきの学校なら、自殺者が出るっていうのは珍しい事じゃない。けど玄霧皐月が勤務して、彼がまた他の学園に移った後に自殺者がかならず出るんだ。因果関係こそ立証できないけど、偶然は十も二十も続かないだろ」  幹也の言葉に、わたしの思考はぐるぐると躍りだした。  ……勤務した学校から立ち去った後、かならず自殺者を出させる教師。  玄霧先生も、今回の事件に関わっているというのだろうか。けど先生は黄路美沙夜にいいように使われているだけだ。先生自身も記憶を奪われて、一年四組には何も異状がないと信じさせられている。  操っているのは黄路美沙夜のほうなんだ。あの害のない、幹也に似た人が何かをしているなんて、考えたくない。 「ま、こっちからの話はこんな程度かな。あとは鮮花次第だけど、無茶なことはするなよ。くれぐれも式から離れないように。……と、あともう一つあったっけ。ゴシップなんだけど、玄霧皐月の皐月っていう名前。あれ、メーデーのもじりらしいんだけど、なんなんだろうね、メーデーって」  ……それはメーデーではなくメイデーの事だと思う。メイデーとは五月一日の事で、太陽の回帰を祝う日だ。なるほど、それなら皐月っていう名前がつけられるだろう。皐月は陰暦の五月なんだから─── 「ああ、そうか」  真っ白になった思考のまま、わたしは一人納得していた。  それで、皐月か。日本人には馴染みのない祝日で思い当たらなかったけど、その日は紛れもなく─── 「兄さん。玄霧先生が神童でなくなった理由って、あるでしょ?」 「うん? ああ、噂話程度ならあったかな。なんでも取り替えられたとかなんとか。実際は三日ぐらい家に帰ってこない時があって、それから物覚えが極端に悪くなったって話なんだけど」 「でしょうね。先生は取り替えられたんだ。メイデーはハロウィーンと夏げ至し祭の夜に並ぶ、妖精に出会いやすい日の事だもの。きっと───玄霧先生は、そこで止まったままなんだわ」  電話相手に呟いて、わたしは受話器をかちゃりと置いた。  橙子師の言葉を思い出す。  ───妖精の使い方は難しい。術者はいつのまにか彼らに要望を叶えさせるのではなく、彼らの要望を叶えさせられている場合が多いんだ。いいか鮮花。自身から作り出したモノ以外の使い魔には気を付けろ。使役するほうが使役される結果になりかねん───  使役するほうが、使役される。  使役しているほうが、本当は、使役されているという事実。  わたしは根本的な部分で間違いをおかしていた。  そもそも、なぜ橘佳織は自殺にまで追い込まれたのか。  黄路美沙夜は記憶しか奪えないといった。本人さえも忘れている過去は記憶ではなく記録だと。では、誰が忘却されたはずの記録を手紙にして送っているのか。  いや、そんな事よりもっと考えるべき疑問があったのに、どうしてわたしはそれを忘れていたのだろう。今回の事件の大元に遡る疑問、それは───  黄路美沙夜は、一体誰に魔術を習ったのか。 ■ 「きっと───玄霧先生は、そこで止まったままなんだわ」  静かに、わずかな哀しみと確かな敵意をこめた呟きを残して、電話は唐突に切られてしまった。 「鮮花────?」  電話の相手の名前を呼んでも返事はない。通じなくなった受話器を置いて、黒桐幹也はわずかに首をかしげた。  なにか、たたごとじゃない雰囲気だったな……そう思いながら、幹也は椅子に座り直す。  一月六日、正午すぎ。  蒼崎橙子の事務所には彼の姿しかない。所長である橙子は出かけているが、そもそも今日は休日なので職場にいる幹也のほうが場違いではある。  彼が休日出勤をしている理ワ由ケは、言うまでもなく妹である黒桐鮮花と友人である両儀式の両名にある。彼にとって色々な意味で心配なこの二人は、新年早々おかしな事件の調査なんぞをやっているらしい。  幹也は事件そのものの内容を知らないので、それが危険なものなのか安全なものなのか、てんで判別がつかなかった。二人がそんな事件の調査をする、という話だって誰から聞いたわけでもない。ただ、一月二日に意味不明の八つ当たりをしてきた式がいて、彼女本人に気取られないようにさりげなく話を聞き出しただけなのだ。  黒桐幹也が式から聞き出した情報は、彼女が転入生と偽いつわって礼園に侵入する、というものだけだった。そこからあれこれと思案を巡らせて連絡を入れてみれば、式本人から葉山英雄と玄霧皐月についての調査を頼まれてしまった。  去年の十一月に礼園の寮舎放火事件を小耳に挟んでいた幹也はその筋から調査を開始、一通りの資料が出来上がったのがつい一時間前。もちろん、電話をした昨日から一睡だってしていない。 「……まあ、式がいるかぎり万が一って事もないだろうけど」  妹の身の安全を心配しながら、幹也はうーん、と背筋を伸ばした。  さて、これからどうするべきか───と机に向き直って、幹也は目を細めた。……かなり、眠い。  眠ってる場合じゃないかも、などと思いながら、黒桐幹也はゆったりと眠りの中に沈んでいった。  ……そういえば、と、うろんなまどろみの中で思った。  礼園に行くという事は式が制服を着るという事で、そんなものすごいミスマッチな彼女の姿を見るのが、ちょっとした楽しみだった。  けれど、結局式は最後まで自分にその姿を見せてはくれなかった。原因は簡単で、礼園の制服に着替えた式を見て、橙子さんが一言、 「───素晴らしい」  と感想を漏らしたからなんだそうだ。  ……何が素晴らしいのかはホントに分からないけど、そのおかげで式は礼園の制服を仕舞いこんでしまったのだ。 「机で眠ると風邪をひくぞ、黒桐」 「───はい、起きます」  反射的に顔をあげて、黒桐幹也はきょろきょろと周囲を見渡した。  時刻は午後三時すぎ。場所は事務所の自分の机。……あれから二時間ほど眠ってしまったらしく、身体は当然のように冷えていた。冬も最中のこの時季、暖房もなく眠れば当然と言える。 「所長、いつ帰ってきたんですか?」  幹也は背後に立つ蒼崎橙子に振り返る。  コートを着た女性は、口に煙草をくわえたままでたった今、と答えた。  橙子はつまらなそうな目をしていて、いかにも娯楽に飢えている、という気配をしている。どうやら今日のデートは大輔兄さんの玉砕に終わったな、と幹也は一人納得した。 「ははあ。その分じゃ退屈だったみたいですね、所長」  普段やられてばかりなので、こういう時ぐらいからかってやろう、と幹也はにやりと笑う。けれど、彼の思惑とは違って、橙子はいや、と首を横に振った。 「そうでもない。つまらなかったが、退屈はしなかった」  言って、彼女はコートのポケットから缶コーヒーを取り出すと幹也の机に置いた。 「みやげだ。黒桐にやる」  ……えらく安上がりな土産だったが、冷えた体には有り難い。幹也はいただきます、と缶コーヒーの蓋をあける。  橙子は依然としてつまらなそうな視線のまま、幹也の机の上に放置されたファイルを眺めて、なにげなく手に取った。 「あ、それですか? 式の頼みで礼園の教員について調べたものです。橙子さんには面白くないと思いますけど」  だろうね、と彼女は頷いて、それでもファイルのページをめくりだした。  幹也が座っている椅子の横で、立ったままファイルの中身を読みとばしていく。  関心のない素振りでページをめくる手は、玄霧皐月の顔写真でぴたりと止まった。 「───偽神の書ゴドーワード」  唇に挟んだ煙草が落ちる。  幽霊にでも直面したように目を見開いて、彼女は信じられない、と呟いた。 「噓だろう、協会が血眼になって捜している魔術師がこんな所で高校の教師をしているのか……? これは一体なんの冗談なんだ、ええ、統一言語師マスター・オブ・バベル」  言って、彼女は声もなく笑った。  それは軽蔑からではなく、むしろ戦せん慄りつを抑える為にこぼれた、力ない乾いた笑いだった。 「玄霧皐月は魔術師なんですか?」  幹也の質問に、橙子はいや、と首を振る。  彼女はいびつな笑みを浮かべたまま、自分の椅子に座り込む。俯いて空間を睨むその姿は、首輪が外れかけた黒豹のように狂気じみていた。  それほど───彼女にとって、玄霧皐月という人物は異常な存在なのだろう。 「……マザーから送られた資料には写真はなかったからな。初めから鮮花に任せるつもりだったのが拙まずかったか。私自身が確かめればよかった。いや───確かめたところで、私も記憶を奪われていたか」  橙子の独り言に、幹也は首を傾げるしかない。  事件の内情を知らない彼にとって、記憶を奪う、なんて単語は何かの比喩にしかとれないからだ。  それでも、分からないなりに幹也は疑問を口にする。 「橙子さん。鮮花と式は玄霧皐月を調べています。玄霧皐月は、ふたりに危害を加える人物なんですね?」 「まさか。ゴドーワードは何もしない。噂が本当なら、彼は決して他人を傷つけない。そもそも彼は魔術師じゃない。彼には魔術の才能はまったくないんだ。祖先や両親が魔術師だったわけではない、鮮花のような変異的な遺伝体質者さ。鮮花が燃やす事以外できないように、彼は言語を口にする事しかできない。  だが───この手の遺伝体質者は限られた能力だからこそ、私達のように積み重ねられた血統にはない領域にまで踏みこめる。ゴドーワードは、その領域にわずか十年で達した怪物だ。  当時───二十代でマスタークラスにあがった私は、自分が最年少の魔術師だと疑わなかった。けど、実際は生誕から十五年でマスターになった子供がいてね。中東方面の学院にいたその子供と会う機会は一度もなかったが、その名前だけは全ての学院に知れ渡っていた。  統一言語師マスター・オブ・バベル、ゴドーワード・メイデイ。神話の時代を唯一再現できる、魔法使いに最も近い魔術師さ」  くく、と笑いをかみ殺しながら橙子は続ける。  彼女は幹也に語るのでもなく、ただ、自らの感情を落ち着かせるために言葉を紡いでいるようだった。 「ゴドーワードの本名や生い立ちは不明だ。彼が所属していたアトラスの学院でも識る者は限られていただろう。本人を見た者もそうはいまい。  ただその姿と能力だけが伝わっている魔術師で、協ロ会ン最ド大ンの魔術師達は彼は実在しない幽霊だと訝いぶかしんだものだ。  ゴドーワードの魔術はね、文字通りその言葉にある。彼は現存する全ての人種、部族の言語を把握している。話せるのではなく、その言語が生まれた背景や信仰、原理から思想の全てを理解している。彼に語れない言葉はなく、彼が知りえない人種は存在しない。だが、これは彼が各国を巡礼して学んだ知識ではないんだ。ゴドーワードは、たった一種類の言語を学び、その結果として全ての人種の言語を理解したにすぎない。黒桐。バベルの塔ぐらいは知っているだろう。バビロニアに伝わる神の門の神話だよ」 「───はあ。ブリューゲルの描いた、ラセン状のおっきな塔の事ですよね。たしか……高い塔を建てて、その頂に神殿を作って神様が簡単に下りられるようにと人間は考えたのだけど、神様からしてみれば人が天に近付く事は傲慢なので、塔を壊し、人間が一つにまとまってこういう事を繰り返さないようにって、言葉を乱して人々をバラバラにしたっていう」 「ほう、詳しいな。そうだ、それが人類最古の神話に伝わるバベルの塔の伝説だ。この神話が示す事柄は多数あるが、最も注目すべきは『言葉を乱した』という所にある。  神は人類という種が分かれるようにと人々を区分けしたんだ。肌の色や体質からではない。もっと分かりやすく根本的な部分、つまり言葉でだ。人と人の意思疎通において、最大の壁は髪の色や瞳の色ではなく、その言語の違いだろう? それこそが最も巨大な断絶だ。分かり合う事ができなければ、人々はバベルの塔のような巨大建造物は建てられない、と当事の神さまはふんだのだろうね。しかし、結局人間は地球上で最も栄え、霊長となり、言語の壁さえもとっぱらってしまった。  さて、そこで話を戻そう。人々は神によって言葉を乱された。それは神という存在が人々に認識されていた時代、つまり神代の出来事だ。神代の頃は神秘が神秘ではなく、それが常識として扱われていたという。今でいう剣と魔法の世界だろうな。現代では不可能となった神秘は、神代ならばそう困難な技術でもないんだ。なぜか。各々の魔術師は当時の自転と月との位置関係、星の巡りによる相克が世界にエーテルを満たしていたからだと結論した。だが───それを覆したのがゴドーワードだ。彼はね、神代では世界が優れていただけではなく、言語自体も優れていた、と証明したんだ。  神は言葉を乱したという。では───それ以前はどうだったのか。そう、人間はみな同じ言葉で意思疎通を行なっていた。だが万物に共通する『意味の説明』が果たして可能だろうか? 可能だとすれば、それはカタチのない言語、人が人に話しかける言語ではなく、人が世界そのものに話しかけて意味を決定させる言語になる。神は言葉を乱した。その言語を怖れ、人々にカタチのある言語を授けた。我々は知恵を与えられたつもりで、その実真実を奪われていたのさ。  ……その奪われた真実を、ゴドーワードは身につけた。神が乱す前、世界に共通していたたった一つの言語。これを我々は統一言語と名付け、ゴドーワードはそれを唯一再現できる魔術師となった。  マスター・オブ・バベル。全ての生物に共通する意思疎通とは、つまり根かみ源さまに通じる門に他ならない。バベルとは神の門という意味でもある。……ゴドーワード本人には魔術師としての能力がない為、その門をくぐり抜ける事はできないそうだがね」  憎々しげに口元をつりあげる橙子とは対照的に、幹也は難しい顔つきでなにやら考え込んでいる。橙子の話の何割かしか理解できなかった彼は、結論として、こんな事を問いただした。 「……ようするに、玄霧皐月はどんなモノとも話せるという事ですか?」 「ああ。ただこれは一方通行の会話だ。神代では皆が統一言語を識っていたから会話が成立したが、ゴドーワード一人しか話せない言語であるから、話し掛けられるのは彼本人だけだ。岩や獣に言い聞かせる事は出来ても、岩や獣はゴドーワード本人に自らの意思を伝えられない。人間ならばそれぞれの言語で意思を返せるがね」 「はあ。……それって意味があるんですか? 返答がないなら、そんなものはただの独り言じゃないですか」 「ただの言語ならそうさ。だが彼のは違う。彼は岩や獣に自分の意思を言い聞かせる。けれど話しかけている対象は岩や獣ではなく、この世界そのものなんだ。存在論的なヒエラルキーとして、私個人という物の上に、世界に存在する蒼崎橙子というものがある。こちらに話しかけられては、私個人の意思ではどうしても抗あらがえない。それを否定する事は、世界に存在する事を拒否するという事だからだ。言語絶対。彼の言葉はそのまま真実となってしまう。ゴドーワードというヤツは、万物に共通する最高の催眠術師なんだよ。  記憶には人間そのものが記憶している物とは別に、世界そのものが記録している物がある。アカシックレコードの概念に近いが、あれよりは下位の波動現象だな。それを理解する方法の一つが統一言語だ。ゴドーワード……玄霧皐月が忘却した記憶を採集できるのはそれだ。ヤツは本人の脳が忘れている記憶からではなく、世界が記録している過去を引き出す。世界が律儀に録音している様々な過去を聞き出せるのは、現代ではあの男だけだろうよ。流石さすがは封印指定を受けた魔術師という所か」  散々話して落ち着いたのか、橙子は椅子に深く背を預けて深呼吸をした。  ……封印指定。後にも先にも現れない、と魔術協会が判断した希少能力を持つ魔術師は、協会自身の手によって封印される。その奇跡を永遠に保存する為に。  封印指定は魔術師としては最高級の名誉でもあり、同時に厄介事でもある。なにしろ封印されては研究を続ける事ができない。魔術師である以上、次の段階を目指せないのでは魔術師である意味がないというのに、協会は魔術師のサンプルとして保存するのだ。  そんな屈辱に耐えられるはずもなく、封印指定を受けた魔術師達は協会から身を隠す事となる。ゴドーワードも協会から失踪した魔術師の一人だ。彼がここにいると協会に報せればゴドーワードは即座に捕まる事だろう。  ……けれど、蒼崎橙子はその手段をとらない。いや、とれない。  なぜなら、それは──── 「私まで見つかってしまうからな、くそ」  罵るように呟いて、彼女は天井を仰ぐ。  ゴドーワードが礼園にいる以上、鮮花と式に勝ち目というものは万に一つもない。かといって彼女本人が出向いて玄霧皐月という魔術師と対決するほどの因果も、また存在しない。 「今回は傍観か。まあ、大事にはなるまい」  簡単にそう結論を下すと、橙子は煙草に火を点けた。  その様子を、幹也は頼りなげに見つめている。 「……大事にはならないって……聞いたかぎり、玄霧皐月っていうのは危険な人じゃないですか。ふたりを助けにいかないんですか、所長は」 「ゴドーワードは何もしないと言っただろう。そもそも彼には攻撃手段というものがない。魔術師としての能力は三流以下だ。鮮花達がどんなにつっかかったって、彼は他人を破壊しないよ。アレは、あくまで他人の望みを具現化させるだけの魔術師だ。本来、ゴドーワードは魔術師と呼ばれるだけのスキルを持たない。その彼が魔術師と呼ばれるのはね、もう思想が変化せず、ある出来事だけを追い求める概念と化してしまったからだ」 「……? ある出来事だけを追い求める概念って、何が目的なんですか、その人」  幹也の素朴な質問に、橙子はああ、と頷く。  ───考えてみれば。今回の忘却を記録するという行為そのものが、ゴドーワードの性質なのだ。それに思い至らなかったのは、まあ仕方のない事でもある。まさか魔術世界において人間国宝とまで称される男が、こんな辺境の小さな学園で実験をしているなんて誰が思おう。 「目的はね、簡単な事なんだ。私達からみればどうでもいい問題を彼は追い求めている。なんていうのかな───そう、永遠だ。ゴドーワードは永遠を探しているんだよ。あれほどの能力を持っていながら、幻想を追いかけている。いや、逆なのかもしれないな。優れた能力を持つが故に、解決できない問題しか追いかけられない。  ──蜃しん気き楼ろうは、確かに人を惹きつけてやまない幻ユ想メだから」  だから安心していいぞ、と付け足して彼女は煙草を口に咥くわえた。  深く、ゆっくりと呼吸をする。  橙子は天井を感情なく見つめて、こう、唄った。 「報われないね。永遠なんて、何ど処こにでもあるっていうのに」  煙草は、ゆらゆらと煙っていた。 /5  灰色の陽が差し込む礼拝堂の中で、玄霧皐月という教師が立っていた。  その表情は優しげな笑みをかたどっていて、敵意も好意もなく私を見つめている。 「おや。こんな時間に礼拝堂に何か用ですか、両儀君」  走りこんできた私を咎とがめるでもなく、彼は自然に話しかけてきた。  その姿が黒桐幹也と重なってしまって、ほんの一刹那、軽い目眩が起きてしまう。けれど玄霧皐月は玄霧皐月にすぎなくて、私は服の裾からナイフを取り出せた。  手術用のメスみたいに小さな刃物を見て、玄霧皐月は顔を曇らせる。 「危ないな。そんなものを持ち出すと、誰かが怪我をする事になる」  彼の言葉は生徒をなだめるように穏やかだった。  私はそれを無視して礼拝堂を観察する。  人影はおろか、人の気配さえない。ここに走りこんでいった女生徒の姿もすでになかった。  いや、それとも───初めからここには、玄霧皐月しかいなかったのか。 「黄路美沙夜は何処ですか、先生」  礼拝堂を見渡すのをやめて、私は祭壇の前に立つ教師を見つめた。  玄霧皐月はかすかに俯く。 「ここに黄路君はいません。けれど、君が捜しているのは私だと思いますよ。ここで忘却の採集をしていたのは、黄路美沙夜ではなく玄霧皐月なんですから」  柔らかな笑顔のまま、玄霧皐月はそう言った。  その言葉に噓はなく、私はこの相手が事件の犯人だという事実を簡単に受け入れられた。  そこには不思議と驚きもない。唐突に告げられた真実は、とっくの昔から知っている出来事のように私の思考を支配していた。  それはまるで、良く出来た催眠術。 「どういう意味なんだ、それ」  分かっていながら、私はつまらない質問をする。  口調は自然、攻撃的になっていた。もう歳相応の女性口調をする必要はない、と判断しての事だ。  鋭く相手を睨む。  ……玄霧皐月は私の視線を受けて、後ろめたそうに小さく苦笑した。 「そういう意味だよ。君の捜している相手は私だ。さっきの妖精は私の仕業ではないけどね。……ああ、黄路君は君の事がよく理解できていなかったみたいだ。擬ぎ似じ体の妖精一つで君をどうにかできる筈がないのに、君に向かわせてしまった。作り物かもしれないが、アレは或る生命活動の延長として腑分けされた生き物でね。殺されるために使役されるなんて、哀れだよ」  本当に悲しむように玄霧皐月は目を閉じる。私が殺した妖精の為の黙禱だろう。  それを見つめながら、私はしばし考えた。  両儀式の役割は原因の究明をする鮮花の手助けだ。けど、敵が目の前にいるのならやる事は一つに決まっている。  私は、こいつを───── 「違うよ、両儀君。私は妖精使いじゃない。妖精を使っているのは黄路君だけだ。私にはあんな多くの使い魔を同時に操る思考の分割はできない。あれは紛れもなく黄路君だけの才能だからね。私に出来る事といえば、言葉を記録する事だけなんだ。妖精の事件に関しては私は限りなく無関係に近い。君は、その理由で私を敵と認識してはいけないと思う」 「な───」 「だからといって、君と私が無関係というわけでもないんだ。その因果の為に、一度だけ私は黄路君を失敗から助けてあげなくちゃいけなくてね」  玄霧皐月が目を開いた。  開けられた瞳は、やはり以前と何一つ変わりのない平凡な教師のものだ。 「本来なら私はこの件には関わり合いにはならない。けれど、もともと君はこの一件とは無関係のファクターです。君と少なからず関わり合いを持つ私が、君を受け持つのは当然のこと。黄路君を阻止する役割があるのは黒桐君だけですから、後は彼女達の能力の問題でしょう。ですから───君が相手をするとしたら、それはこの私ぐらいなものなんです」  困った事に、と仕方なげに玄霧皐月は付け足す。 「……なんで? 礼園の事件以外で、オレがおまえの相手をする理由なんかないだろ」 「そうかな。君は、忘れた記憶を思い出すのは嫌いだったんでしょう? だから昨日も私を拒んだ。元からある記憶を掠奪するのは黄路君の仕業だけど、忘却の採集は私にしか出来ない事でね。今君がここまで黄路君を追ってきたのは、記憶を奪った代償として殺しにきたからでしょう? ほら、ならその相手は私という事になる」  ──柔らかな笑顔のまま、玄霧皐月はそう言った。  私はそれに頷く事さえできない。  玄霧皐月の言葉通り、私は自分の記憶に触れられる事を嫌悪していた。妖精というものを反射的に潰してきたのも、それが許せない事だったからだ。  今だって妖精使いである黄路美沙夜を殺す為にここまで追ってきている。その標的が玄霧皐月という人物に変わったところで許せない事に変わりはない。  けど、湧いてこない。  さっきと同じだ。  だっていうのに、私は───  厭いやな悪寒も何の危険も、この相手から感じ取れなかった。  ……こんなの、初めて。 『敵』を目前にして自分はどうやら無感動らしい。それが理解できない心境と気付いて、ようやく私は悪寒というものを背筋に感じられた。  でも───まだ、とても殺す気になんてなれていない。 「そんなコト、あってたまるもんか────」  悪寒という憎悪を糧にして、私は柔らかに笑う玄霧皐月を本気で観察した。  黒い、死の線を直視する。  ……玄霧皐月の体にある死の線は、蜘蛛の巣のように複雑に絡み合っていた。けれどそれは、同時にどこを通しても死に易い体という事だ。ここまで死にやすい人間というものを、私は見た事がない。  玄霧皐月は、沈んだ色の瞳のままでうっすらと笑った。 「なるほど、それが直死の魔眼というモノですか。私はすでに通ったあとの道しか聞き取る事ができないけど、君は通っていく道筋を見れるんだね。……ふむ。過去を記録できる私と、未来を視る事のできる君。荒あら耶やが私を呼びだした理由は君の消去にあったようだ、シキ君」  哀しむように目を細めて玄霧皐月はこちらを見た。  ……私は相手のそんな態度より、ただ一度口にした単語に目の前が真っ白になった。  ようやく悪寒とは別の敵意が、この体に満ちていく。  アラヤ。玄霧皐月は、間違いなくその名を告げたのだから。 「そうか。おまえは魔術師か、玄霧皐月───」  ならば敵だ、と私はナイフを握り締めた。  今までのおかしな心境は、この魔術師の手による物だ。  そうでなければおかしい。  そうでなくっちゃいけない。  この相手は殺していいもの。  この相手は殺さなくてはいけないもの。  そう自分自身に言い聞かせた瞬間。  私に見えない私が、  くすりと笑ったような気がした────。 ◇  これから殺すべく相手の顔を見つめて、どくん、と心臓が大きく鳴る。  幹也に似ているからといって、見逃すなんて事はしない。相手が魔術師であるのなら、私と同じように境界の外にいるものだ。  なら───それは殺人ではない。  玄霧皐月は、群れの中で生きる人間ではないのだから。  私は今にも弾けそうな両儀式の体を冷静に制御して、一撃で玄霧皐月を絶命させる方法を脳裏に描く。  ……隙だらけのその体へと疾走して、喉もとへ垂直にナイフを突き立てる。突き刺した刃をそのままにして、体の下までナイフを一息で引き下ろせば事は終わる。  それは実行の容易い事で、私は三秒後の結末を明確に思い描ける。  ……なのに。  心の中の映像は、四肢をばらばらに切断された少年の死体だった。  どくん、と心臓の音が高い。  緊張で呼吸が乱れる。  そんな事、今までなかった。  相手が幹也に似ている男だから、私は躊躇して呼吸を乱しているみたいだ。 「シキ君、それは違うよ」  不意に、ただ居るだけの魔術師が言った。  軀からだはその言葉に反応して飛び出そうとして───  ───私は、それを懸命に、かつてないほど必死になって、圧おし止めた。  ……だって、だめなんだ。    それだけはぜったいにいけないから────  理由が分かって、私の呼吸はもっと乱れる。  まだ───この相手に殺意を抱いてはいけない。  私は、この相手には襲いかかる事が出来ない。幹也に似たこの男。……それを殺すという行為が、私の心臓にこんなにも負担をかける。  それがイヤな事だから、じゃない。  そう思っただけで、私は。  喉が渇いて、舌が痺しびれて、我慢できない。  それが逆に恐くて、私は必死に自身の足を圧しとどめた。  けど、軀は今すぐにでもあの男を殺したがっている。式の悲しみや苦しみを解決したがっている。  そうすれば───楽になれると識っている。  でも、じゃあ私は。  ───今度も、いつしか。  黒桐幹也という友人を、三年前のように殺そうというのだろうか───? 「……そんなの、いやだ」  呟いて、私は私の軀を止めた。  玄霧皐月はひとり、私を見守るように頷いていた。 「うん、よく踏み止まったね。もし君がそのままで私を殺せば、事は済んでしまっていただろう。かつて、君は日常で生活する為に殺人衝動を持つ織君を殺してきた。けれど今は式という君が自らの殺人衝動を殺さないといけない。それが出来なければ、君は式という人格さえ失って空っぽに戻ってしまうだろう。……ふむ。荒耶の話では式君は直情的という事だったけれど、それは彼の勘違いだな。私から見ると、君は少し臆病にみえるよ」  柔らかに言って、玄霧皐月は私から視線を外した。 「君の事は荒耶から聞いていた。もともと私はその為にこの街に呼ばれた者だ。言っただろう、君と私は無関係でないと。荒耶は私を君にぶつけるつもりだったようだが、その前に本人が敗れてしまったんじゃ笑い話にもならない。残念だな。彼の目的の達成には、それなりに興味があったんだが」  それだけ言って、玄霧皐月は口を閉ざした。  彼は何もしない。  ただそこに立っているだけで、瞬きさえしなかった。  魔術師は逃げることも戦うこともしない。まるで自らは動けない鏡像みたいに。私はナイフを手にしたまま、この空気のような相手と、いつまでも向かい合っていた。  沈黙は、重りになって礼拝堂に満ちていく。  まだ乱れたままの心臓の音だけが、どくん、どくんと私の耳に反響していた。  ……いつまでも、ありえない鐘の音みたいに鳴り止まない。  私は襲いかかる事もできず、心臓の高鳴りを静める事もできず、言いたくもない言葉を口にした。 「───どうして何もしない、玄霧皐月」 「私から言うべき事は全て語ったからね。もしこれ以上語り合う事があるとすれば、それは君からの質問に私が答えるという形でしかない。君が私を無関係とすれば、私も君を無関係な者として立ち去ります。君が私と戦うというのなら、私も自衛手段をとるでしょう。黄路君を助けるのは一度だけです。それも、こうして果たしました。ですから決めるのは貴女です。私自身からは、何も」  ……おかしな回答に、私は眉を曇らせた。  決めるのは私だと魔術師は語る。それはつまり、この相手には意志がないという事に他ならない。  けれど───それは矛盾している。 「こっちが望めば望んだカタチで応えるっていうのか、おまえは。でもオレは忘れた記憶を取り戻したいなんて思ってなかった」  動悸する胸を片手で押さえこんで、魔術師を睨みつける。  魔術師は同情するように首を横に振った。 「いえ、君自身が忘却した記憶を求めていた。私はそれに応えたまでです」  求めていた────? ああ、それはきっと本当の事。けど私が欲しいのは失われた織の記録だ。私が、両儀式が過ごした三年前の記憶だけ。苦しくて、けど温かかったクラスメイトとの記録なんだ。  あの時の記憶なんて、いらない。  冷たい雨に凍えている記憶は、むしろ──── 「それは違うよ、玄霧皐月。私は記憶を取り戻したいんじゃない。きっと、記憶を完全に忘れ去りたいんだ」  そうだ。  だからこそ、式はあの日の記憶を忘れてしまった。  織の記憶は、彼が死んだ事により記録になりはてて壊れてしまった。きっと、永遠に戻らない。でもその損失を代償にして、今の私がここにいる。 「だから───おまえなんて呼んでいない」 「……なるほど、私の思い違いだったようですね。たしかに式君が望んだのはそちらでした。では、そちらも還してさしあげましょう。それが私の役割ですから」  魔術師は柔らかく微笑した。  そこには敵意も悪意も、善意も好意もない。  トウコは言った。  妖精の悪戯には善悪がない、と。彼らは結果を求めずに行動する。そこに個人の意志など存在しない。  人の記憶を採集するこの魔術師は、まさに妖精そのものだ。けど……それなら、どうしてこの男は笑顔でいられるのだろう? 自分からは何もしないというのなら、その表情だって動かないのが道理ではないのか。 「……おかしいぜ、おまえ。オレの望んだカタチでしか応えられないくせに、どうしておまえは笑ってるんだ。オレは笑顔なんて求めていない。鏡であるなら、自分から笑う事なんてできない」 「ええ、その通りです。ですが私は笑ってなどいません。言ったでしょう。私は、笑った事がないのだと」  そう答える魔術師は、それでも笑顔を崩さなかった。 「ですが、周りからはそう見えるらしいですね。私本人は普通にしているつもりなのに、どうしても玄霧皐月は微笑んでいる。私は自分が笑っていると実感できた事がないんですよ、式君。笑おうと思って笑った事がない。笑みをうかべる理由も、笑顔をするべき価値も知らない。  よく分からないんですよ、そういうのって。楽しいなんて、感じた事はありませんから。そのあたりは生せいの実感がない君とよく似ている。……まあ、君のほうは時間が解決してくれるでしょう。両儀式には未来があるから。だけど───私には過去しかありません。玄霧皐月は、誰かの過去を観る事しかできない。人が生きるために何かを奪うように、私は生きている為に玄霧皐月以外の過去を採取します。そのアトの事は知らない。過去を取り出した後、その結果をどう扱うかは過去を持つ本人の意志によります。観る事しかできない私は、それを扱う事はできませんから」  どこか拙い笑顔のままで魔術師は語る。  作り物ではない本物の笑顔は、こう付け足していた。  それに、扱おうという意志も持てないのです、と。 「───過去しか、ない?」 「そうです。過去がないという事は、自身がないという事に繫がります。悲しい事だけど、私には自分というモノが稀薄なんだ。〝自ら考える〟という行為ができない以上、玄霧皐月には夢とか目的とかいったものがない。そんなものは本と同じですよね。知識だけはあるのに、それを利用するのは本という私本人ではない。……私には、世間一般でいう人間として機能する意味がない。けれど自殺する勇気も必要性も感じない以上、私は玄霧皐月として生きていくしかないんです。自分がない以上、自身を確かな物とする方法は一つしかないでしょう。  ───他人の望みを叶えること。それ以外に玄霧皐月は自分という表現が出来ない。そこには善悪の概念はないんです。ボクは君達の望みを還してあげている。忘れた時間を思い出させてあげています。おそらく、これはいい事なんじゃないのかな、式君。君達が忘れてしまった大切な記録を、持ち主である君達自身に返すだけなんだから」 「そんなの、勝手なことだ」  呟いて、私は魔術師を睨みつける。  この男の言葉は、なにかおかしい。  意味が脳にではなく体に言い聞かせられているみたいだ。  私はまず自分自身に、この言葉に心を傾けてはいけないと言い聞かせた。 「忘れた記憶を返すだって? そんなのはお断りだ。式は手紙にして送られる出来事なんていらない。亡くした記憶は戻らないもの。おまえが口にする言葉なんて、オレは何一つ信じてやらない」  動悸する胸の音を片手で押さえながら、私は玄霧皐月を直視する。  魔術師は初めて、私にまっすぐ視線を向けてきた。  睨み合いとは程遠い、別れの儀式みたいに虚ろな視線が絡み合う。 「───そうか。君でさえ自らの記憶を放棄するというんですね。君たちの考えはわからないな。どうしてそう、エイエンである事を止めてしまおうとするのだろう」 「永遠? 忘れ去った記憶を思い出させて記録するって事が永遠だっていうのか? 笑わせるな、そんな物なら何処にだって転がってる。おまえがわざわざ口をだす問題じゃない」  そう、思い出を残しておきたいのなら、写真にでもビデオにでも撮影しておけばいい。それなら自身が忘れ去った後でも確認ができるだろうから。  けれど、魔術師はそれを否定した。  初めて───その表情が笑顔以外のカタチを作る。 「それは永遠ではないよ。外界に残した物は、永遠には残らない。たしかに、人間の技術ならいずれ、いかなる事故にあっても破損しない〝媒体〟が作れるだろう。だが、それは物体自体が不変なのであって私達が不変なわけじゃない。物は観測者がいてはじめて意味というモノが与えられる。たとえ物自体が不変であろうと、それを観測する者の印象が不変でなければ〝永遠〟ではないんだよ。  君は、昨日見たものを昨日見た時とまったく同じ心境で観測できますか? そう、出来ないんだ。観測者の心は、いつだって不変ではありえない。  新しい物は古くなるし、素晴らしい物は色褪せていく。物自体は変わらないというのに、私達自身の心が物の価値を変えてしまうんだ。  ほら───個体が不変であろうとなかろうと、永遠である事はないだろう? なぜか? 簡単だ、私達は外界の物とは断絶されているからだよ。いいですか、式君。永遠であるという事は、カタチがないという事なんです。観測者の印象に左右されない、観測者そのものを支配する出来事。それが唯一永遠といえる現象、完全な〝記録〟という物です」 「───その記録だって、後になって変わるものじゃないか。その時はいい事だと思えた出来事も、振り返ってみれば悪い事になる場合の方が多い。おまえの言う永遠なんて、何処を探しても見当たらない」 「それは記録ではなく記憶でしょう。記憶とはつまり、その人物の性格でしかない。性格はそのつど変わるもの。外界に順応する為に変わる性格はドレスみたいなものです。君なら解るはずだ。口調や性格、肉体など所詮、自己を判りやすく表現するための服装にすぎないと」  一歩。魔術師は私へと足を踏み出した。 「観測者自身が、観測される対象になること。自分自身がいるのではなく、自己が重ねてきた時間そのものが自己だと認識し、受け入れること。確かな人格など、初めから存在しないと認めること。記録とはつまり、自身の考えでさえ影響をうけない魂の核です。それこそが永遠に保管されるものなんだ。自らの内に取り込め、一緒になれる自分自身の傷なんだから。それなら、たとえ世界がなくなろうと自身に残り、自分という世界が終わるまでともにある。  それは、ずっと残っていて。  それは、ずっと変わらない」  ……性格などいらない。自己が重ねてきた歴史だけが自己を示す証であるのなら、それは何が起きても変わらないモノになる。観測者そのものが観測される対象になれば、観測するモノも不変であり、観測される対象も不変。  それが永遠だと魔術師は言った。 「……おまえの言っている事は、わからない」 「そうでしょうね。簡単に物事を忘却できる君達にはわからない。この世界で永遠と呼べるものは人の記録だけなんです。君達は人生の後に思い出が出来ると錯覚している。本当は思い出の後に人生が作られているというのに。  人には、忘れさっていい記憶なんかない。人格が切り捨てた記憶を、その個人自体は捨てたくない。だから君達の願いは、いつだって忘却の録音なんだ。私は、彼女達の鏡像として、その願いを返しているだけです」  さらに一歩。魔術師は笑顔を取り戻して近寄ってくる。  私はナイフを持つ手にいつも通りの微熱を感じて、気がついた。  ……胸の動悸も指先の痺れも、喉の渇きもいつのまにか消えている。  長くて、そのクセほんとうに意味なんてなかった会話のすえ、私はこの相手の正体が視えていた。  動悸はとうに収まっている。  ……たしかに、こいつは幹也と似てる。  けど決定的に違う。同じなだけで、違う過程を歩んだものだ。その違いをはっきりと悟って、私はコレを単純な敵と認識できていた。 「……善悪の概念はない、か。たしかにおまえが悪いわけじゃない。おまえはただ、誰かの願いを聞いているだけだものな」  だけど、違う。善悪の概念はちゃんとある。たしかに玄霧皐月自身に意志はない。けれどこいつには物事の善悪をきちんと量れる知性があるのだ。それを持っているくせに善も悪も等価値に扱う時点で、こいつには無害を自称する資格なんかない。 「やっとわかった。おまえはさ、鏡のフリをしているだけだ。そうやって無害なフリをしているだけなんだよ。責任を他人に押しつけて、まるで子供のままじゃないか」  私の言葉に、魔術師は嬉しそうに目を輝かせた。  どこかピエロに似た───── 「私と戦う、というのですね、式君」  ─────狂気を含んだ歪いびつな笑い。 「いいでしょう。ならば私も荒耶との契約をはたす事にします。お互いに無視しあえれば良かったのですが」  魔術師が眼鏡に手をかける。  戦いの前に眼鏡をとっておこうというのだろうが、私の体はそれを待つほど我慢強くない。  一足で、玄霧皐月に切り付けられるまでに間合いを詰めた。 【あなた」「には」「見えない】  魔術師の声が、聞こえた。  脳そのものに直接響くそれは、間違いなく真実だった。  私は一瞬で玄霧皐月の姿を見失って、振るったナイフは空を切った。 「な───」  周囲を見渡す。礼拝堂に人の姿はない。ただ、私以外のもう一人の気配だけがこの肌に伝わってきていた。  玄霧皐月はたしかに、私の目前にいる。なのに私には魔術師の姿を見付ける事が出来なかった。 「……危ないな。声より速く行動ができるなんて侮あなどっていたよ。おかげで片腕をもっていかれた。荒耶が敗れたのも頷ける。君はたしかに、殺す事に長たけているようだ」  声は目前から聞こえる。  私は襲いかかりたい衝動を抑えて、目前へと意識を集中させた。  玄霧皐月を見る事ができないのなら、ヤツの死の線だけを視つければいい─── 「だが、君では私には勝てない」  声は私の思考に直接響いた。それより早く、私は魔術師の死の線を凝視していた。 「─────視つけた」  今度こそ、逃がさない。  再度、魔術師へと肉薄する。  けれど───それさえも私は見失った。 【ここ」「では」「見えない】  声が礼拝堂に響く。  礼拝堂は、一切が闇に落ちた。魔術師の一声で一筋の光もない、何もかもが不可視な世界になってしまう。 「……ふむ。やはり君個人には効きが薄かったか。根源に通じている君の体と私の言葉は同じ階級だからね。だがそれもこうすればいいだけのことだ。ここでは、たとえ両儀式であろうとも死を視る事はできない。……まあもっとも、こうなっては私本人も何ひとつ見る事ができないんだけどね」  耳元で声がする。  振り向いてナイフを一閃しても、切り付けるのは風ばかりだ。 「無駄だよ。君では私には勝てないといっただろう。  そう───あらゆるモノを殺害する君でも、言葉だけは殺せないから」  ……そんなコト、考えた事もなかった。  でもたしかに。  私は、言葉だけは殺す事ができない─── 「だが、かといって私に君を殺せるかというとこれも否なんだ。私ができるのはこの程度さ。少しでも君に近寄ればたやすく組み伏せられるだろう。だから命のやりとりはしない。もともと、私は戦いをする者ではないんだ。  ボクがするのは、君の望みを叶える事だけだからね」  その言葉に、私の体は微かに震えた。  私の望み───忘れ去りたい、私の真実。 「やめろ。そんなモノ、私は欲しくなんかない!」  叫びは闇の中に消えた。 「さあ───君の嘆きを再生しよう。安心したまえ。たとえ君が忘れ却ろうとも───記憶は、たしかに君に録音されているのだから」  それは感情のない、メトロノームみたいに整った音。  魔術師の声が式という私の中に浸透していくのを、私は止める事もできずに、ただ見つめ続けるコトしかできなかった────。 忘却録音/6  幹也からの電話を切って、わたしは高等部の校舎へ急いだ。  時刻は午後一時を過ぎたばかり。  空模様は今にも泣きだしそうな鉛色で、頭上は厚い雲に覆われている。 「……この分じゃ、今日は雨になるのかな」  冬の冷たい空気を肺にしみ込ませながら、わたしは昏い森を抜けて校舎に辿り着いた。  誰もいない廊下を歩いて、一階の端にある英語教諭の準備室に行く。  ノックもせずに扉を開けると、玄霧皐月という教師はすべて解っていたように、椅子に座ってわたしを待ち受けていた。  彼はいつも通り、笑顔のままでこちらの全体像を観察する。その左腕はだらりと下げられていて、まるで体のその部分だけが死んでいるようだった。  ……なぜだろう。  わたしは、それが誰の仕業によるものか一目で判ってしまっていた。 「それは式にやられた傷ですね、先生」  はい、と玄霧先生は頷いた。 「この腕と引き替えに逃がしていただきました。ああ、式君は無事ですよ。あと一時間もすれば目覚めるでしょう。もっとも、私の腕は一生治癒する事はないでしょうが」  灰色の陽が差し込む窓を背にして、玄霧皐月は淡い笑顔でそう言った。  あらゆる動揺も隠し事もない、平穏すぎるその在り方。  わたしは息を止めてから、何かに誘われるようにその問いを口にする。 「橘佳織を追い詰めたのはあなたですね、先生」  はい、と玄霧皐月は頷いた。 「葉山英雄を行方不明にしたのも」  はい、と先生は頷いた。 「黄路先輩に魔術を身に付けさせたのも」  はい、と魔術師は頷いた。 「わたし達の忘却を採集していたのも」  はい、と彼は頷いた。 「そして、妖精に取り替えられた事も、本当なんですね」  はい、とソレは嗤わらって頷いた。 ◇ 「────どうして」  それしか、口にできなかった。 「どうして、先生が?」  無様に同じ質問を繰り返す。  彼は眼鏡の奥の瞳を翳かげらせる事なく答えた。 「別に、目的などはありません。橘君の事も黄路君の事も、葉山先生の事も、私は彼らの望みを叶えただけの話です。何故と問うのなら、彼ら本人に問いただしてください。私には、答えられません」  笑顔のままで玄霧先生は言う。  それは言い逃れではなくて───この人は、本当に答えられないんだ。  例えば、橘佳織が自分の罪を玄霧皐月に相談する。彼は橘佳織に、彼女本人にしか考え付かない方法を提示するだけ。自殺による救済は、彼女本人の意志だから。  例えば、黄路美沙夜が橘佳織の死に報いたいと相談する。彼は黄路美沙夜に、彼女本人しか考え付かない方法を提示するだけ。一年四組全員を自分から自殺に追い込む手段を、魔術として黄路美沙夜に提供する。  そこに、玄霧皐月自身の意志はまったくない。 「───けど、忘却を採集するのは別です。誰も、忘れた記憶を見せ付けられる事なんて、望んでいません」 「そうだろうか。どうして君はそう思うのかな、黒桐君」 「────え?」  あくまで柔らかに、玄霧先生は問い返してきた。  そこに敵意も悪意もない。  ……どこか、この状況は異常だった。  わたしは事件の黒幕と対決する覚悟でこの部屋にやってきて、こうして一対一で対峙している。なのに玄霧皐月はいつも通りで、わたしも教師に質問する生徒のように心が沈んでいた。まるで───私の遣りきれない心が、玄霧皐月という敵に反映しているような感覚─── 「だって、わたし自身が望んでいません」 「だろうね。覚えていないんだから、考えられるはずがない」  ───それが私の理由なんだ、黒桐君。  独り言のように、玄霧先生はそう付け足した。  覚えていないから、考えられない。  それが忘却を採集する理由だと、この人物は語ったのだ。 「それはどういう事ですか、先生」 「簡単だよ。私はそうする事でしか、君達が分からない。私が外界を理解するには、君達の記録をたどる以外に方法がないんだ。玄霧皐月が記憶を採集する理由は、きっとそういう事だったんだろう」  遠い出来事のように言うと、彼は思案するように口元に指をあてた。  何の感情も含まない瞳を、わたしは正面から見詰め返す。訊きたい事、知りたい事はそんな曖昧な言葉ではなかったから。 「わたしが訊いているのはもっと明確な理由です。だいたいどうして、先生は忘却の採集なんて事を始めたんですか。先生が取り戻すべき過去は、あくまで自分本人の物だけのはずなのに」  幹也からの報告を思い出す。玄霧皐月は十歳のころ、妖精に拐かどわかされたという過去を持っていた。その事実を問いただされて、彼はほう、と感嘆の声をあげた。 「───驚きました。よくそんな昔の事を調べたものです。君の言う通り、私はたしかに子供の頃妖精に出会ったことがあります。それ以来、記憶に障害をきたすようになったのも本当です。魔術を習った原因は、その障害が医学では治療できない物だったからです。……ああ、間違いはありません。たしかに私は自身の過去を取り戻す為に魔術を習い、忘却の採集ができうる手段に辿り着きました。本来なら、私は他人の記憶になど干渉するべきではなかったのでしょう」  どこか後悔するように彼は言った。  己は、他人に干渉するべきではなかった、と。 「───なら、どうして」 「そうせざるをえなかったからですよ、黒桐君。  とても高い所まで登りつめはしたけれど、私は、私自身の過去を遡る事ができなかったんです。  脳は、記憶を絶対に忘れない。ですがそれは脳に異常がない場合のみです。私の記憶は忘却したのではなく、破損してしまったものでした。そうなると手段は一つしかありません。一個人が記憶している過去ではなく、世界そのものが記録している現象を遡るしかない。幸い、私にはそれができうるだけの技術があった。けれどダメだった。観測者は、自分自身を観測する対象にはできない。自分自身と握手はできないんです、人間というものは。  だから───私は、他人の中にある私を取り出すしかなかった。人々の記憶、意識はその深層で繫がっています。魔術師を目指しているのなら聞いた事があるはずです。根源の渦と呼ばれる『位置』の事を。かつての私は、あなた達の意識の底から、私に繫がっているかもしれない記憶を探していたんです」 「───アカシックレコード、ですか」  呟いて、わたしは小さく首を横に振った。  そんなの、まるで信じられない。橙子師でさえ到達は不可能だ、と断言する全ての源。そこにこの人物は到達しているというんだ。  人々の意志は独立しているけれど、〝霊長の意志〟という大きなくくりの中で独立しているモノだと、橙子師は言った。だからその大きなくくりを観測できる技術があるのなら、独立していて孤独している人々の意志や記憶に溶け込む事ができるとも。  けど、なんて皮肉だろう。  それがたとえ真実だとしても───そこまでやっても、この人は望むモノを手に入れてはいないんだ。 「そこにも……玄霧皐月の過去はなかったんですね、先生」  弱々しい声で、わたしはこの人物の結末を代弁する。  けれど意外な事に。彼は優しい笑顔のままでわたしの言葉を否定した。 「いいえ、答えはありましたよ。おかしいでしょう? そんな事をしなくても、私は記憶を無くしてなどいなかったんです。ただ、私がそれと気がつかなかっただけの話で。その事実に気がついた時、私はすでに多くの他人の過去を採集していました。黒桐君。人が、記憶を忘却する理由はなんだと思いますか?」  唐突に訊かれて、わたしは喉をつまらせる。わたし達が物忘れをする理由。それは、きっと─── 「……脳の容量は限られています。わたし達は、必要な情報と不必要な情報を分けなくてはいけません。長く時間を重ねれば重ねるほど、その忘却は大きくなるでしょう。わたし達は日々を混乱する事なく暮らす為に、不必要な記憶を削除していかなければいけないから」 「ええ。それが大半の過程でしょう。ですが、それは忘却ではなく整理というのです。時間によって消え去った記憶と、個人の意志によって消し去った記憶は異なります。私が訊いているのは、人が意図的に消し去った記憶の事です。君はわかっているのにそれを口にしないんですね、黒桐君」  柔らかな、陽射しに消え入りそうな優しい笑顔で、玄霧先生はそう言った。  わたしはそれに、喉をつまらせるしかない。  ……そう、この人のいう通り。今のは優等生じみた、誰だって知っている答えにすぎない。 「……忘却は。わたし達が意図的に思い出を忘れるのは、その個人を守るための手段だとでも答えればいいんですか、先生」  力なく答えるわたしに、玄霧先生は無言で頷いた。  ……もちろん、わたしだってわかっていたんだ。人が自分から記憶を忘れるのは、それが不必要な事だからじゃない。それは覚えていては危険だからという事を。  過去に犯した様々な過ち。それを覚えていると自我を崩壊させかねない記憶を、わたし達は意図的に忘れてしまう。そうする事で今の自分───健全で罪のない自分という幻像を守っているんだから。 「そう、それが忘却された記憶の正体です。罪、禁忌、後悔といったものをあなた達は意図的に忘れてしまう。それは深層意識に深く根付き、あなた自身から取りのぞけなくなったあなたの一部だから、忘れるしかないんでしょう。  わかりますか。人の意識の深層を探るという事は、忘却された記録を取り出すという事になるんです。私は、それを繰り返しすぎた。自分の過去を探る為に多くの人間の忘却を巡って、私はたぶん、わからなくなってしまったんでしょう。  たいていの人間は、自らの罪を忘却する事で生きている。自らの汚れ、醜さをなかった事にして暮らしているんだ。それは悪い事ではない。むしろ生態として優れた部分だと思います。けれど、私は恐いんです。その汚れを放っておく事ができない。あなた達の世界はとても不安定で、争いごとが多すぎる。このままでは永遠に残るモノなんてなくなってしまうでしょう。  だから、なくならないように君達の望みをカタチにしてあげているだけなんです。返された落とし物をどう扱うかはその個人の自由でしょう? そこに私の意志が介入する余地はない。もしこれに善悪というものが定められるのであれば、それを決定するのも、やはり個人の意志なんです」  うっすらとした笑みをうかべながら、玄霧皐月はそう言った。  彼が人の忘却を採集するのは、自らの過去を探す為だった。けれどその過程で様々な人間の忘却を見てきた彼は、人間というモノの汚さが我慢できなくなって、その掃そう除じをはじめたという事だろうか。  自己の遍歴を遡るという彼の目的は、いつしか人の遍歴をカタチにするという物に変わってしまった。  ただ、彼はその掃除を自分の手ではなく、汚い部分を持つその本人の手に委ねた。だからこの人は自分自身が善悪を問われる事はない、と言っている。  ……そんなもの、ただの言い逃れにすぎないとわたしは思う。 「……そうでしょうか。忘却を提示する事は罪の告発だとあなたは分かっているのに、自らに善悪はないと?」  はい、と彼は頷いた。 「私は何も望まない。ただ、解決する手段がほしい」  当然のように玄霧皐月は語る。  わたしは、ここでようやく、この人物に対して反感らしきものを抱けた。  たしかに忘れられた記憶の幾つかは自ら忘れようとした物ばかりだと思う。  けど、その大半は忘れようとして葬った記憶じゃない。それは、思い出す必要のない事のはずなんだ。  たとえば、子供の頃に見たおぼろげな錯覚。  本当はただの入道雲なのに何か特別な生き物に思えたあの刻とき、工場の煙突からもくもくと出る煙が空を作っていると信じていた眼差し。……夕焼けに向かってどこまでも歩けば、見知らぬ国に通じてしまいそうで恐かった。でも心はどきどきして、ずっと地平線の向こうに憧れていた。  それらは今にして見ればただの錯覚なんだろう。けどそれは、忘れても思い出してもいけない大切な事なんだ。  歳を重ねて、大人になっていくわたし達には思い出してはいけないユメがある。そのユメを暴きたてる事は、きっと、許される事じゃない。 「───それは余計な、あなただけの思惑です。人を識るために忘却を採集するというのなら。そんな事より先に、あなたは忘れてしまっているご自分の記憶を採集するべきです、玄霧先生」  視線に力を込めて、わたしは玄霧皐月を見つめた。  彼は穏やかな表情を崩さずに、にこりと微笑んだ。 「それは不可能なんですよ、黒桐君。玄霧皐月の記憶は忘却されたものではなく、妖精に奪われたものなんです。記憶は忘れてしまったんじゃない。私の記憶はね、わからなくなってしまっただけなんです」 「記憶が、わからない?」  鸚おう鵡む返しに呟いて、わたしは眉をひそめた。  記憶を忘れたのではなく、わからなくなったとはどういう事だろう。  そういえば、この人の言葉はどこかおかしかった。自分の事を、いつも他人事のように話している。  それがどんな原因によるものか判らないけれど、この人は、つまり…… 「妖精に拐かされた後も、記憶は元のままだった?」  彼は頷く。 「そうですよ。玄霧皐月は自分を無くしていなかった。だから───私は、他人の忘却を巡る必要なんてなかった。そんな事をしても、もう帰る家などなかったというのにね」  そう呟いて、彼の表情は変わっていった。  笑顔は笑顔のままで、滑こつ稽けいなカタチに変貌していく。……まるで、サーカスのクラウンの化粧みたいに。 「たしかに、私は子供のころ妖精に拐かされました。アレが妖精と呼べるものなのかどうか判りません。もしかすると、ただ仲間が欲しかっただけの亡霊だったのかもしれない。  エイエンでいよう、と彼らは言った。  私は、ただ家に帰りたかった。  妖精に捕まった子供は二度と家に帰れないという迷信だけは知っていた私は、夢中になって彼らから逃げ出しました。  野原を越えて、森を抜けて。  自分の家が見えた時、ホッとして後を振り返ったんです。そこにあるのは数えきれないほどの妖精の死骸と、血で真まっ赤かに染まった自分の両手だった。その時、彼らの言っていた事が本当だな、と分かったんですよ。だってそうでしょう? 子供だった私は、二度と、もとの家には帰れなかったんだから」  笑顔のままで道化の貌かおは語る。  ───思い描いてしまった。  行方不明になった息子が、得体のしれない血で染まって帰ってきた時の両親の冷たい反応を。  ……そうなんだ。たとえ自分の家に帰れたとしても、そこはもう以前の物とは違っている。  その家は、もう彼が思い描いていたホームじゃない。  彼が帰りたかったのは温かい家であって、自分を白い目で見る両親達がいる家ではなかったんだから。 「───先生は、妖精に拐かされたんじゃなくて───」 「ええ。彼らを皆殺しにしたようですね。  ですが、それがいけなかった。代わりに玄霧皐月は彼らから呪いを受け取ってしまったんです。  私はべつに、記憶を忘れてしまったわけじゃない。玄霧皐月はね、その時から自分の記憶が自分の物なのかわからなくなっただけなんです。  おかしな物で、それ以来私は見た出来事の『再認』ができない。そこから先に得た知識は、記憶ではなく情報にすぎないんです。世界は映像ではなく、言葉にすげ替えられた情報に変わってしまった。  私の───いえ、ボクの外の世界は、十歳の頃から止まったままなんです。妖精達の呪いなんでしょうが、これがどうして、どうやっても解かい呪じゆできないほど強い」  くすくすと子供のように、彼は笑った。 「記憶が───言語にすぎない?」  思わず、そう呟いてしまった。  ……わたしは、玄霧皐月という人物の心がまだ妖精に攫さらわれているままだと思っていた。それはひどい勘違いだったけど、十歳の頃から成長していないんじゃないか、という予想だけは合っていたみたいだ。  けど、そんな事はどうでもいい。  今の言葉は、おかしすぎる。  見た映像を再認できない? そんな筈はない。それなら、どうやってこの人は生活しているっていうんだろう。  目で見た映像を〝再認〟できない、という事は過去がないという事と同じはずだ。どんなに記憶力があっても、それを思い出して〝自分が得た思い出〟と認識できないのなら、そんなものは本に書いてある情報と同じなんだ。  わたしは、玄霧皐月を昨日見ている。その過去をもとに、いま玄霧皐月と出会って、彼が昨日出会った人物と〝再認〟できるから今がある。  再認が出来ない、という事は記憶が確かでも一致しないという事だ。  つまりは昨日あった出来事も、玄霧皐月は思い出せない。  彼にとって、全ての出来事は何度繰り返そうと初めて体験する出来事になる─── 「───噓です。先生はわたしが黒桐鮮花だと判ったじゃないですか。再認ができないのなら、わたしが誰であるか判らないはずです」  まなじりを決して、わたしはこの得体の知れない相手を見つめた。  玄霧皐月は、わたしの否定の言葉を柔らかに受けとめる。 「そうでしょうか。私は黒桐鮮花という人間の特徴を単語として記録しています。君を見て、記録してある黒桐鮮花の特徴と当てはまったから、君を黒桐鮮花と認めただけです。だからここで君より黒桐鮮花の特徴に当てはまる第三者が現れれば、私にとって黒桐鮮花はその第三者になるでしょう。貴女自身が誰であるかは関係ありません。私の中には、映像がありません。あらゆるモノは単語として記録されています。人間の場合は身長、体重、骨格、肌の色、髪型、言動、年齢です。私はあなたを見て黒桐鮮花だと思っているんじゃない。今のあなたという人間の特徴が当てはまったモノが、黒桐鮮花というモノに一番近いというだけのこと。  銘記も、記録も、保存もできる。ボクにはただ再認だけが働かない。もちろん、この方法ではたえず間違いが起きてしまいます。映像で確認できない私は、言語で物を区別しますから。ですから髪型一つ変わるだけで、その相手を間違える事だってある。物忘れしやすいと周囲の人々からはよく言われます。この学園でだって、玄霧先生はどこかぬけていると噂されていたでしょう?」  そうして、玄霧皐月は自嘲じみた笑顔を消した。  わたしはその姿を見つめて、体が落ち着いている事に気がついた。  ───この人は、誰も、見ていない。  ……わかってしまった。玄霧皐月が黒桐幹也に似ている理由と、どこかが決定的に違っている理由が。  昨日という出来事が記憶ではなく記録、データにすぎないこの人物には、自分というモノがない。  だって、自分の思い出がないんだもの。  彼にとって、思い出は自己を形成するものではなく、外界に対応するだけの情報になりさがっている。そこに玄霧皐月という人間の意志は稀薄だ。だから彼は自分から話しかけられず、全ての出来事を抵抗なく受けとめられる。  いや、受けとめるしかないんだ。その一点のみがひどく似ていて、そして、決定的に違っている。  この人に出来るのは受けとめるだけ。幹也のように、そこから返す物がない。  玄霧皐月は、いつも、生まれたばかりの子供なんだ。  だから自分が笑っているかどうかも分からない。自分の考えさえ持てない。思う事さえ、出来ないんだ。  思い出せないから考えられない、と彼は言った。  だから───この人物は、他人の記憶を採集する事でしか他人を識る事ができない。  ……なんて事だろう。  これじゃあまるで、ただ周囲の出来事にのみ対応する機械と同じだ。この曖昧な世界を確かなモノと決定するには、なによりまず自分の意志が必要だっていうのに。 「あなたの現実はいつも不確かなんですね、先生」  何か哀れなモノを見るように、わたしは呟いた。  彼は頷く。 「そうですね。ですがそれで十分です。自分が笑っている実感もない。この身体も、指が五本あって思い通りに動くから私の腕なのだろう、と仮定するしかできない。自分の身体さえ、言葉に変換できる事実としか認識できない。  でも、人間は肉体がいらない生物でしょう? 私達は脳さえあれば事足りる。結局は脳内の電気反応だけが私達の世界です。外界はつねに曖昧なもの、それを確かな物に決定するのは各々の脳の中だ。性格も肉体も、しょせんは自己を判りやすく見せる装飾でしかない。カタチに残るモノがあるとしたら、それはこの頭の中だけのモノなんです。  物質は消費され磨ま耗もうしていくもの。地球という世界が壊れていくのは、自然の摂理です。最後は無くなってしまうのが正しい在り方ですから、誰もそれを解決する必要なんてない。私達にとっての真世界は、それぞれの脳髄の中だけなんですから。  でも、それでさえ汚れている。  だから私は忘却を採集する。問題を解決しようとする試みは、人間としての条件ですから。私には自己がありません。けれど自己がないという私でもある。確かな肉体も確かな現実も、さして重要ではないでしょう。肉体に精神は宿らないし、現実に意味なんかない。永遠は此処にはないんだ。外の世界は、汚すぎるから」  平坦な、とてもつまらなそうな顔をして、彼は言った。  わたしはほんの一瞬だけ、この人物の意志に触れられた。けど、そんなものは、本当に瑣末な事だ。  ここには誰もいない。  ただ人の忘却を採集する本があるだけ。  ……むかし、玄霧皐月は自分の記憶を取り戻すために魔術を習って、人々の記憶を巡っていった。  けれどそれは無意味だった。結局、記憶を取り戻したところでそれを自分のものと認識できなければ意味がない。彼の行為は徒労だった。  そうして目的は変わってしまった。  わたし達の忘却を巡っているうちに、この人物は様々な闇を見てきた。十歳のままで止まっている子供にとって、それはどんな恐怖だっただろう。  彼は人の汚れが許せない。  彼は世界の汚れが許せない。  それは恐くて、解決しなくちゃいけない事だ。けれど彼は、考えるという事ができない。 「だから───自分の記憶が戻らなくなった後も、ずっと探し続けたんですね。あなたには、それしか出来ないから」  はい、と偽神の書は頷いた。 「……或る魔術師は人間がいなくなる事が解決だと結論しましたが、私は人間が好き勝手やって、なお永遠でいられる結論がほしかった。  けれど私の思考はバラバラで、カタチがない。一生懸命にモノを考えても、雑音だらけで何を考えるべきかさえわからない。ずっとずっと、みんなが平和になる方法を求めて苦悩している。  でも、それを導きだす事は玄霧皐月にはできない。自己がない彼は、〝既にある事実〟しか言葉に出来ないのです。故に、私はその解答を人々の記憶の底に求めた。今まで何千という歴史を重ねてきた人類です。長い歴史の中でなら、一人ぐらいはその解答を見付けだせていたかもしれませんから。  無論、過去にそんな方法はないかもしれない。けれど考えるという未来がない私にとって、思い出すという過去にその方法を見付けだすしか、答えを見付ける手段はなかった」  それが今の、忘却を採集する目的だと彼は語った。  人々は忘れている。全てに共通する解答を。だからわたし達はこんなにも不完全なのだと、玄霧皐月は信じたんだ。  いや、そんな目的しか持てなかった。  人々が忘却したものの中、いまだかつて誰も思い出せない忘却に、彼の求める答えがあるのかもしれない。玄霧皐月にとってはそれ以外に希望はなかった。  そうして答えは───何処にあったというのだろう。 「……一つ、疑問が残ります」  なんでしょう、と変わらない笑顔で彼は受けとめる。 「あなたはどうして忘却の採集だけにとどめなかったんですか。それを録音する必要はないし、わたし達の望みを叶える必要なんて、ないじゃないですか」  なるほど、と変わらない笑顔で彼は頷いた。 「簡単ですよ。私は人間でいたかっただけです。自身が人間なのだと、感じていたかった。人間として身勝手に人間だけを大切に扱えば、私はあなた達の仲間になれる。けれどそれだけでは足りないんです。  人を、人たらしめているモノは自己の意志です。  私は、それを示す必要があった。かつての私は、執拗に他人の過去ばかりを求めた。それだけを繰り返してきた。それは紛れもなく私だけの意志です。玄霧皐月は、己の記憶を取り戻すという目的をなくした後も、それを無くしたくなかった。  そう───唯一の人間性、趣味という娯楽を、ソレと定めたのです」 「目的が───目的なんですね」  息を呑むわたしに、彼は満足げに頷いた。 「そうです。ですが黒桐鮮花。魔術師とは、誰もがそういうものですよ」  それが貴女が知りたがっていた言葉です、と人の望みを叶える魔術師は頷いた。 ◇  長くて、意味のなかった問答は終わった。  わたしは立ち去る前に、一つだけこの人物に尋ねたい事を口にする。  それはこの事件の調査を命じられた黒桐鮮花としてではなく、わたしとしての黒桐鮮花が確かめたい事だった。 「最後に教えてください。あなたにとって、黄路美沙夜はなんなんですか」  わたしは、もうこの人物に関心も興味もない。ただその回答だけが聞きたかった。  もしかすると、それだけがこの何者でもない人物を個人にしてくれるんじゃないかと期待して。  そして、答えは予想通りだった。 「黄路君は黄路君です。それが、なにか?」  優しい笑顔で、そう言った。  望みを反映する鏡としての彼ではなく、玄霧皐月という人物を愛しているという彼女に対する彼の真実が、それだった。 「黄路美沙夜は、あなたを愛しているのに」 「ええ。───ですが、それは彼女の幻想です」 「黄路美沙夜を、愛してはいないんですか」 「さあ。───それは、彼女が決める事です」  簡潔な答え。人間らしさが微塵もない、ただ受けとめるだけの答え。 「あなたの意志は、それだけなんですね」 「ええ。彼女も他の生徒と変わりはありません。  ……ただこの学園の中では、彼女は抜きんでてキレイだったのは認めましょう」  資料をめくるように言われた言葉に、わたしは一歩だけ後退してしまう。 「───あなたは、まさか」 「そうです。私が忘却を採集したのは一年四組だけではありません。この学園の人間すべての忘却を採集しました。黒桐君。この学園の澱よどみは一年四組の事件だけではありませんよ。たんに、君が気付いていないだけの話です」  じゃあ───礼園の生徒はみんな、この人物に自分を返されていたんだ。八百人近くの人間の罪を告発して、それを様々な望み通りに還す。……それは、とても危うい綱渡りなんじゃないだろうか。それだけの数があれば、黄路美沙夜のように兄への幻想を抱くものもいれば、玄霧皐月自身を憎む生徒も出てきてしまう。  ……いや、それほどにこんな事をずっと繰り返してきたこの人物は、とうの昔に誰かの殺意を買っているはずなんだ。  だから─── 「───その先は口にする必要はありませんよ、黒桐君。あなたの危き惧ぐは無用です。誰かの望みが私を殺害する事だとしても、その善悪は私には関わりありませんから。どのような望み、どのような結果であろうと、責任はその生徒にあります。  そう──私からは、何も」  自身が死ぬ事でさえ、受け入れると彼は言った。  それは死を覚悟しての言葉じゃない。自分がない、自分を無視した人の言葉だ。 「わたしは勘違いしていました」  以前、わたしはこの人を害のない人間だと思っていた。  けど、それは違った。  コレは害のない人間なんじゃない。居ても居なくてもいい存在にすぎないと、なんで、わたしは気がつかなかったんだろう─── 「あなたは───決して、幹也と同じなんかじゃない」  玄霧皐月は、満足げに頷いた。  わたしは準備室を後にする。  この人物に対して行なうコトなんて、何一つとしてないんだから。 「長い質問だったね。今まで、ここまで私に答えさせた人はいなかった」 「違いますよ、先生。今のは黒桐鮮花の意志じゃありません。わたしは師に命じられた調査の為と───黄路先輩の代わりに、あなたを知ろうとしただけですから」  それは、冷たい返答だった。  けれど玄霧皐月は本当に嬉しそうに、クスリ、と小さな微笑をこぼした。……今までの笑顔とは違う、どこか作り物みたいな、ぎこちない笑顔を。 「黄路君は旧校舎にいるよ。君と両儀君が思い通りにならないから、計画を早めたんだろう。一年四組の生徒を旧校舎に集めて火を放つと言っていた。  ───そうだね。止めるのなら、急いだほうがいい」  言われて、わたしは駆け出していた。  ……最後に。その言葉だけは、彼が自分自身から紡ぎだしたものだと気がつきもしないままで。 /6  雨が降りはじめていた。  昏い森に囲まれた旧校舎は、ぽつぽつと雨音をたてて、誰に看取られる事もなく佇んでいる。  ……目的の彼女たちは四階の教室に集まって、そのまま眠った。  私は直接手を下さない。  あとは、彼女たちの誰かが自分から火を放つのを待とうと思う。  古びた、誰もいない旧校舎で雨を待つ。  二階の渡り廊下から昏い森を眺めていると、黒桐鮮花という生徒がやってきた。  私は憂ゆう鬱うつな吐と息いきをもらして、彼女を出迎える事にした。 ◇  小降りの雨が黒い制服を濡らす。  冬の雨は雪のように冷たかった。  吐く息は白くて、うなじのあたりがシンと震える。  そんな凍えた空気の中を駆け抜けて、黒桐鮮花は旧校舎に辿り着いた。  昇降口から中に入る。  校舎は、もう何十年と放置された廃屋のように寂しげだった。生徒である子供達の声も、学校としての息遣いも死に絶えている。  今ここにあるのはキイキイと小煩い虫の声と、鼻をつく乾いた匂いだけ。  彼女はくん、と匂いをかいで、それがガソリンの香りだと納得した。火薬や燃料の匂いに、黒桐鮮花は人一倍敏感なのだ。 「───ああ、めんどうくさい」  両肩を落として、鮮花はそんなため息をつく。 「一度しか話した事のない相手のために体を張るなんて、ほんと、バカみたいだ」  廊下を歩きながら、鮮花は右手に手袋をはめる。茶色をした革製の手袋は、彼女の師から譲り受けた逸品だった。  火ひ蜥蜴とかげの皮で作られたその手袋は、彼女の発火するだけの能力をよく抑えて、同時に暴発させてくれる。  戦闘準備を整えて、鮮花は二階へ続く階段の前で立ち止まる。  二階に続く階段の踊り場に、黄路美沙夜が待っていた。 「こりない人ね、黒桐さん」  お気にいりの下級生をたしなめるような雅みやびな口調で、黄路美沙夜はそう言った。  彼女は階段の踊り場に陣を構えたまま、廊下にいる鮮花を見下ろしている。  美沙夜の周囲には無数の音が反響していた。  それは鮮花には見えない、妖精と呼ばれるモノ達だ。虫達は羽音を鳴らして、今か今かと女王の命令を待っている。……あの獲物を襲え、というただ一言の命令を。  以前と変わらない圧倒的な戦力差に加えて、今の鮮花の位置ははっきりと不利だった。階段の上にいる美沙夜と下にいる彼女とでは、距離があまりにも開きすぎている。  その状況を無視して、鮮花は黄路美沙夜に話しかけた。 「先輩は噓つきですね。一年四組の生徒は自殺じゃなければいけないと言ったのに」 「───当然です。あの人たちは自発的にここに集まって、自分から焼け死ぬ事に変更はありません。本当はそれぞれで悔い改めさせるべきでしょうが、予定を早めました。まだ死にたがっている生徒は半数ほどですが、いずれ皆そうなるのです。ここで全員が焼け死んでも、結果に大差はないでしょう」 「ふぅん───自殺志願者がいたようには見えませんでしたけど。でも、死にやすい状況と死んでもいいような雰囲気を用意すれば、たしかに一部の死にたがりは集まったクラスメイトを道連れにしちゃうのかな」  ひどい話ですね、と鮮花は肩をすくめる。  その仕し草ぐさに緊張の類はなく、黄路美沙夜は不審げに顔をしかめた。 「黒桐さん。あなた、彼女達を助けにきたのではなくて?」 「まさか。わたし、神さまをまだ信じられないんです。だから罪とか罰とかに熱中できないの。彼女たちは自殺したいんでしょ? なら、それを止める事って余計なお世話じゃないですか」  にこり、と世間知らずのお嬢様みたいに純真な笑みを浮かべて、黒桐鮮花は黄路美沙夜に視線をあげた。  そこに偽りの感情は見られない。  黒桐鮮花は、本気でそんな事を気にしていなかった。  美沙夜の表情はますます険しくなる。  なら───彼女は何の為にここまで来たというのだろう? 「では、私への報復ですか」 「意味合い的には近いかな。わたしがここまできたのは、黄路美沙夜が哀れだからだもの」  言って、鮮花ははっきりと黄路美沙夜の姿を見据えた。  階段は初等部の造りなため、そう段差も高くなく段数も多くない。リズムよく駆け上がれば、美沙夜に辿り着くまで二秒もかからないだろう。 「───私が、哀れですって?」  黄路美沙夜の瞳に、火のような敵意がゆらめく。今すぐにでも妖精達を繰り出しかねない彼女を前にして、鮮花は微動だにせず問うた。 「先輩。あなたはどうして、玄霧先生に相談したの?」  黄路美沙夜は彼が私の兄だったから、と即答した。 「そうですよね。じゃあ、その力は誰に貰ったの?」  それも兄からだと、彼女は答える。 「なら───あなたは、いつ玄霧先生を兄だと認めたの?」  そんな事は、初めから知っていた────  そう言いかけて、彼女はそのつまらない矛盾点に気がついた。  ……どうして。今まで、こんな些細な矛盾に気がつかなかったんだろう、という驚きとともに。 「──────」  美沙夜は小さく声を漏らす。  それでは、順番がおかしいから。 「そういう事ですよ、先輩。あなたは彼が兄だから相談にいったんじゃないでしょう? あなたは、単に玄霧先生が担任だから相談しにいっただけです。それも、きっと橘佳織に関しての事じゃない。あなたはこの学園では一番の権力者ですもの。玄霧先生に相談なんかしなくても、葉山英雄自身を直接問い詰める事ができた。その結果───葉山英雄は死んでしまった。聡明なあなたの事だから、それは本当に不幸な事故だったと思います。けど、とにかく葉山英雄は死んでしまった。あなたが相談したのはその事なんじゃないですか、黄路先輩」  黄路美沙夜は答えない。  彼女はただ、何もない空間だけを凝視していた。そこに、いもしない人物の影を見るように。  美沙夜は自分を見つめる下級生の事さえ忘れて、ただ自己の思考に埋没する。  兄、兄───自分はいつからそれを認めたのか。初めから知っていたはずはない。だって、自分は兄の面影なんて微塵も覚えていなかったのだから。  なら───知る方法は一つだけだ。妖精が使役できるようになって、玄霧皐月の記憶を奪った。その断片に、催眠術みたいに玄霧皐月が自分の兄だと書かれていただけだったのかもしれない。  だって、自分にはそれ以外に知る方法というものがないのだから。 「私、私は─────」 「知らないわよね。黄路さん、あなたは自分の記憶で玄霧先生を兄だと認めたんじゃないもの。あなたは、玄霧先生から奪った記憶からしかそれを認識していない。他人の記憶はしょせん他人のモノでしょう? そこに黄路美沙夜としての真実はどこにもありはしない。  あなたは、ただ、鏡を見ていただけだったのよ。玄霧皐月は、あなたの為に何かをしてくれたわけじゃない。彼にとって、あなたはそこにいる妖精と変わらないんです。───黄路美沙夜は妖精を使役しているようで、その実、あなた自身が使役されている妖精だったんだから───」  そうして、鮮花は式の言葉を思い出した。  美沙夜自身が忘れていると呟いた彼女は、初めからこの事が解っていたのかもしれない。 「……う…………そ」  喘ぐように、黄路美沙夜は呟いた。 「そんなの、噓よ────!」  激昂とともに、妖精たちは弾丸と化した。  空中に停滞していた羽音達は、刃物めいた鋭い音を引いて黒桐鮮花へと食らいつく。  機関銃の掃射めいた暴力の嵐。  けれどそれより早く、彼女は走りだしていた。  両拳を目前に構えたまま、前かがみになって階段を駆け上がっていく。  自分の体を撃ち抜こうとする妖精達を、彼女は体を真横にスライドするだけで鮮やかに回避した。  ……妖精の群れが標的に向かって放たれた弾丸ならば。  彼女は、獲物を仕留める肉食動物そのものだった。  わずか三歩で階段を上り切った彼女は、前かがみの姿勢のまま黄路美沙夜の前で足を止める。  ダン、という踏み込みと、ヒュッと口笛のように吐かれた呼吸。  掬すくいあげるようなボディーブローは弧を描いて黄路美沙夜の腹部をかすめ、その背後へと突き刺さった。  ぞぶ、と何もないはずの空間で音がする。 「AzoLto────!」  拳の着弾を確かめてから、鮮花はそんな単語を発音した。  魔術を発動させる呪文は、その個人によって千変する。  その、魔術の発動に必要な儀式を極端に要約した詠唱が、黒桐鮮花にとっての呪文だった。  大気が一瞬にして燃え上がる。  美沙夜の背後にいた何かは、苦悶の声らしきものをあげながら燃えていく。  木製の人形にガソリンをかけて火をつけたように、炎は明確に何かの形に燃え上がり、やがて炎ともども消えていった。  ふう、と火弾の射手は息を吐く。 「……これがあなたが身に着けていた魔術の正体。魔術は身に着ける物じゃなくて、その身に刻むものです。先輩のようにひと月やふた月で魔術を使うことなんてできないのよ。……玄霧先生はあなた自身に妖精を憑かせることで、その問題を解決した」  発火によって燻くすぶったままの右手の手袋を握り締めて、黒桐鮮花はそう言った。  黄路美沙夜は呆然と───憑き物が落ちたように呆然とした瞳のまま、ぺたん、と床に両膝をつく。 「……そう。そういう、ことなのね」  呟いて、黄路美沙夜は声もなく笑った。  もっと早くに気がつくべきだったのに、と自分自身を嘲笑して。 …  彼女は回想する。  ……あの時。  葉山英雄を問い詰めた時、言い争いになって葉山英雄に暴力を振るわれた。今まで誰かに逆らわれる事なんてなかった私は、ただ夢中で葉山英雄を押し退けた。  ただそれだけだったのに、あの間の悪い男は死んでしまった。 〝もう、どうしていいかわかりません〟  そう言って、私は玄霧皐月に助けを求めていた。  父にも学長にも相談する気にはなれなかった。  私は───ずっと惹かれていた玄霧先生にだけ、自分の罪を告白した。  あの人は、不思議な人だった。  栄光や結果に執着する人間だけしか知らない私は、何にも執着しない玄霧皐月が特別な人に思えていた。  だから───先生なら助けてくれると夢みたのだ。  そして望みどおり、彼は全てを解決してくれた。  兄に幻想を抱いていた自分。それをカタチにしてくれた皐月。  佳織の死に報いたい私。それを可能にしてくれる力を教えてくれた皐月。  彼は、キレイな物は汚い物に触れる必要はないと言った。  ……なぜ、その時に気がつかなかったのだろう。  あれは私と彼女達の事ではなかった。  彼は言った。汚れないためには、自分以外の物を使えばいいと。  その時、私は本当はわかっていた。たとえ私自身が彼女達を殺さなくても。  私自身が、彼女達の死を望むのなら。  だって、それでも、結果としては───同じ事ではないでしょうか、先生?  ……あの時美わ沙た夜しは、彼にそう告げておけばよかったのに。 … 「口にしなければ、よかった」  黄路美沙夜は何もない中空を見つめながら、そう呟いた。  彼女は傍らに立ったままのわたしに意識を向けもしない。けれど、その言葉は彼女自身と、わたしに向けて語られるものだった。 「私だってわかってた。皐月は、自然だったから。自然のままの皐月を愛した私は、そんな幻想をぶつけてはいけなかった。けど、そうして自分だけの何かにしないと不安だったのよ。私は、皐月に誰かのものになんてなってほしくなかったから。  けれど。それは転じて、自分のものにだってなってほしくないという事です。私は、ただ見ているだけでよかった。たとえ───彼が、私の事を何とも思っていなくても、それだけでよかったのに」  何か、もう遠い出来事のように彼女は言った。  ……似てるよ、先輩。  認めたくないけど、やっぱりわたしと黄路美沙夜は似ているんだ。  自分より大切に思えるほどの相手なのに、それを口にした瞬間に大切でなくなってしまう関係。わたしだってわかってる。わたしの───わたしたちの心は、決してカタチにしてはいけない恋慕だっていう事が。 「それでも───求めずにいられなかった」  それが最も重い罪だと言うように、彼女は呟く。  ……わたしは、知らず告げていた。 「先輩。橘佳織を自殺に追い込んだのは、玄霧先生です。あの人にとって、特別なモノなんて存在しない。あなたの復讐は、はじめから的のない物だったんです」 「ばかね、黒桐さん。……そんなの、初めから知っていましたわ」  それだけ言い残して、黄路美沙夜は床に伏した。  懺悔するように顔を床につけて、彼女は笑っている。  くすくすと漏れる笑いは、なんだか泣いているように濡れていた。 ◇  わたしは彼女を残して、子供たちの校舎を去る。  森に降る雨はやがて霧になって、帰り道を隠しているようだった。 Oblivion Recorder/7 ◇  子供のころの夢を見た。  まだわたしが黒桐の家で暮らしていた頃の、ずっと昔の思い出を。  月の明るい夜のことだ。  その日の昼に、隣の家に住んでいたおじいちゃんが他界した。  その人はただのお隣さんで、若い頃に家族を亡くされて独りきりの、淋しげな老人だった。  痴呆が進んで昨日のこともよく覚えていない人だったけれど、とても優しくて、温かいおじいちゃんだった。  わたしは遠見に、兄は親身になってその老人と日々を過ごしていた。  老人は自らの孤独を埋めるように隣の家の少年と話して、兄は純粋な親愛から隣の家のおじいちゃんと過ごしていた。  ある日、何の前触れもなく、その老人が床に伏したまま目を覚まさなくなった事を、わたしと兄は夕飯の時に両親から聞かされた。  なにげない食卓の空気は張りつめて、わたしもあの淋しい老人のために涙ぐんだ。  あの人は、家族を失ってから何十年という責め苦に耐えて、やっぱり酬むくわれるコトなく死んでしまった。それは悲しいものなんだと、あの頃の冷めた自分でも感じ取れていたから。  わたしでさえそうなのだから、兄は泣くだろうと思った。  けど、彼は泣かなかった。  とても悲しそうな顔をして、でも、決して泣かなかった。  強がりとか、そういうコトじゃないのは兄の苦しげな目が語っていた。  ……悲しければ泣けばいいのに。幹也は、そのまま涙する事はなかった。  数日後。  おじいちゃんが臨終を迎えたのを見つけたのは、遊びにいった兄だという事をわたしは知った。  月の明るい夜、わたしは縁側に出て夜空を見上げた。  縁側には兄という先客がいたから。 〝どうして、泣かないの?〟 〝うん、どうしてだろうね〟  困ったような顔で、兄はわたしを見下ろす。  瞳はまだとても悲しげで、だからすごく優しかった。 〝男の子は、泣いちゃダメだから?〟  父の言葉を思い出して訊いてみても、兄は首を振るだけだった。 〝ねえ。なんで泣かないの?〟 〝うん。泣きたくても、泣けないんだ〟  ───それは、特別な事だからね。  それだけ口にして、兄は夜空を見上げる。  その横顔は今にも泣きだしそうで、けれど、決して涙は流れなかった。  ……この時、わたしはわかってしまったんだ。  人一倍誰かに同情して、人一倍泣いてしまいそうなのに、この人は絶対に泣けないんだって。  何かの為に涙するという事は、とても特別な行為だと思う。それはまわりに影を落とす悲しみの表現であるし、心の揺らめきを感染させる行為でもある。  泣くという行為は特別だ。それだけで周囲に大きな影響をおよぼす。だから───この人は泣けないんだ。  どこまでも普通で、誰よりも人を傷つけないという起源を持つこの人は、たとえ自分がどんなに悲しくても、何かの為に涙する事さえできない。泣いてしまえば、誰かの特別になってしまうから。  ───それは誰とでも解りあえるかわりに得た、     誰にも気付いてもらえない空っぽの孤独。  ……この時。  わたしにとって、黒桐幹也は大切な人になった。こんな自分なんかよりずっと大事な、絶対に失ってはいけないモノになったんだと思う。  月の明るい夜。兄妹で星を見上げた。  それがわたしにとっての原風景。  ずっと忘れていて、ずっと思い出してはいけない、遠い日のゆめだった。 ◇  一月十一日、月曜日。  学校が始まって、わたしはいつも通りの学生生活に戻っていた。  授業を終えて教室を出る。  寮に戻って支度を整えてから、シスターに外出届を提出する。  しぶい顔をされながらオーケーをもらって寮を出ると、そこで藤乃とぶつかった。 「出かけるの、鮮花?」 「ちょっとね。もしかすると門限に間に合わないかもしれないから、瀬せ尾おによろしく言っといて」  綺麗な長い黒髪をした同級生にルームメイトへの伝言を頼んでわたしは急ぐ。  早足で森を抜けて、礼園の校門に辿り着く。  守衛さんに個人用の扉を開けてもらって外に出ると、そこには見知った人物がぼんやりとわたしを待っていた。  その人物は黒一色の服に、明るい茶色をしたコートを羽織っている。この寒空の下でどれくらい待っていたのか、眼鏡のかかる鼻の頭は赤くなっていた。  わたしは走ってきた呼吸をきれいに整えて、落ち着いた声で話しかけた。 「待ちました、兄さん?」 「えっと、どうかな。そう長くはなかったと思うけど」  笑顔とも文句ともとれる曖昧な顔をして、黒桐幹也はそう言った。 「じゃあ行こうか。門限まであと二時間しかないから、急ごう」  そうして幹也は歩き始める。彼の横に並んで、わたしは弾む心をそれなりに自制していた。  礼園の高い壁にそって、わたし達は駅に向かって歩いていく。  ……なんでこんな事になったかというと、始まりは昨日の幹也からの電話だった。  あの正月のすっぽかしを気にしていたらしい幹也は、その埋め合わせをしようと言ってきたのだ。 〝少し遅れたけどお年玉、いらない?〟という兄の言葉に折れて、わたしは正月の事件を許すことにしたのだ。  ……ほんと、我ながら半はん端ぱに現金でイヤになるけど、それはそれでいいかな、なんて認めたりする。だって、初めて買ってもらうモノを悩んでいるうちに夜が明けて、こうして並んで歩いている今でさえ悩んでいるなんて、かわいいコトだと思えたから。 「それで、鮮花はどっちがいい?」  唐突に言われて、わたしははい? と首をかしげた。 「だから、夕食。和食か洋食か。ごはんをご馳走してやるって言っただろ」 「─────はい?」  もう一度、小鳥みたいに首をかしげた。  どうにも、意味がよくつかめない。  イマ、コイツハ何ヲ言ッタンダロウ? 「……あのな。昨日、何が欲しいって聞いたら決められないって言うから、じゃあ食事にしようって決めたじゃないか」  わたしは愕然と幹也を見上げる。  あれはたしか、まだ決められないとわたしが答えて、それでも食事をするから外に出てきなさい、とそのまま電話が切れたんじゃなかったっけ……!? 「……しょうがないな。決まらないのなら、どっか適当においしそうな所に入ってみようか。大丈夫、今日は大枚おろしてきたから、お化けみたいな値段の店でも恐くないぞ」  だから安心しなさい、と幹也は笑顔でわたしを見た。  ……なんてコトだろう。この人、食事に誘われて女の子が喜ぶとでも本気で思ってるんだろうか? 「……思ってるんでしょうね、やっぱり」  はあ、とため息をついて呟く。  幹也は何? と訊き返してくるけど、わたしは無視する事にした。  ……だって、文句を言っても仕方がない。  この人がそういう人だから、わたしは好きになったんだもの。こっちの理想を無理遣りに押しつけちゃったら、わたしの恋慕は迷ってどっかに行ってしまう。 「……そうね、失敗例も目のあたりにしたことですし」  自じ重ちよう自重、と呪文のように内心で繰り返す。 「なんだよ。さっきから独り言が多いぞ鮮花。何かあったのか?」  訊かれて、わたしは静かに首をふった。  世は全て事もなしで、問題なんて少ししかない。 「なんでもありません。ただ、わたしは先輩みたいに失敗はしないぞって誓っただけです」  力強く答えて、わたしは幹也の腕に抱きついた。……うん、きっとこれぐらいは兄妹として許される範囲だろう。  幹也は顔を赤らめながら、普段通りに歩いていく。  わたしもそれに倣ならって普段通りに歩いて、やがてきらびやかな装飾があふれる街が見えてきた。  少し遅れたわたしの年明けは、こんな風に始まった。  だからそれに相応ふさわしく、夕食は豪華な豪華な和食になるのでありましたとさ。 /忘却録音  その日の授業を終えて、玄霧皐月は準備室に戻ってきた。  天気は何日かぶりの曇りで、廊下はモノクロームの写真のように静まり返っていた。  準備室の扉を開けて、中の様子をゆっくりと眺めた。  物であふれている彼の部屋は、けれど生活感というものが排除されていた。  灰色の陽射しに照らされた、時が止まった準備室。  その風景が玄霧皐月の記録してある情報と一致するか確認してから、彼は中に足を踏み入れた。  ぱたん、とドアを閉めた。 「──────」  同時に、彼は鋭い痛みを覚えた。  視線を下ろす。  そこには見知った生徒がいた。  彼女はナイフを持って、深々と玄霧皐月の腹部を刺していた。 「────誰かな」  静かに、彼は言った。  生徒は答えない。  ただナイフを持つ手を震わせて、顔をあげる事もできないようだった。  彼は、そんな彼女の体を観察した。  身長、体重、髪の色、髪型、肌の色、骨格。  玄霧皐月が記録しているかぎり、この生徒の特徴を持っている生徒は一人しかいなかった。  けれど──── 「君か。私を殺すために待っていたんだね?」  生徒は答えない。  彼は一回だけ肩をすくめて、自らの手を彼女の肩におろした。  優しく、彼女の恐怖を和らげるように。 「ならもう行きたまえ。君の用件は済んだんだ」  生徒は、その言葉にびくりと震えた。  玄霧皐月は、自らを殺す相手にさえ、優しかった。  殺人行為よりその事実の方が恐ろしくなったのか、彼女はナイフから手を離して走り去った。  その背中を最後まで見届けても、彼には分からなかった。  あの生徒は、一体誰であったのか。  色々な特徴はある一人の生徒を特定させていたけれど、ただ、その生徒とは髪型が違っていた。それだけで彼にとって彼女は見知らぬ他人だった。髪型を変えただけかもしれないとしても、ただ一点が記録した情報と違うのなら───玄霧皐月にとって、あの生徒は初めて見る他人なのだから。  彼は自分から準備室のドアを閉め、内側からロックした。  血を撒き散らしながら、部屋のあらゆる鍵を丁てい寧ねいに締めていった。  やがて体は動かなくなって、彼は壁に背をついたまま座り込んだ。  ───死は、どうという事はない。     いつだって、私はこの結果を受け入れていた。  彼は自らの体を観察した。  血を流して赤く染まるそれは、今まで記録していた玄霧皐月の体とは違っていた。  だからだろうか。これから死ぬのだという恐怖は、自己というものに似て、ひどく稀薄だった。  彼───いや、私は今の玄霧皐月を採集する。  ……出血はひどい。おそらくは助かるまい。  死に至るまでの時間は、あと十分といったところだろう。  さて、と一息つく。  せめて死ぬまでのその時間を、自由につかいきりたかった。  だが十分は短すぎる。何を思い、何に答えがだせるだろう?  いや、時間の長さは問題ではあるまい。  彼は今生まれ、そして十分後に死亡する。  いわばこの時間は彼の人生だ。これほど長い時間もない。  さあ、何を考えよう。  何を思索してみよう。  今までの自分ならば何を考えるべきかでその全てを使いきってしまった。  けれど、不思議とクリアになったこの人生の中でなら、彼は驚くほどスムーズに議題を手に入れた。  ───呼吸は荒い。  ───十分は長い。  ───出血は酷い。  ───人生は短い。  空白に洗浄されつつある頭脳が、意味もなく彼の思考を口にした。 「───そうだ。まずは、生まれる前について考えよう」  最期に、彼は答えに辿り着いた。  究極の忘却とは、つまり生前の記憶だ。  生まれる前の記録だけは、人は持っていない。  自分が生まれる前の世界。それはとても無意味で、平和だ。ああ、苦悩はとても簡単なこと。 「つまるところ、自分さえ生まれなければ、世界ワタシはこんなにも平和だった」  嬉しくて、楽しくて、玄霧皐月は笑った。  そんな事に何の意味があったのかわからない。  ただ、一つだけ。  この長い時間の中、彼は初めて、自分が笑っているのだと実感できた。 /7 …  ───魔術師は言った。  私でも、言葉だけは殺せないと。  けれど、それでもいつかは死んでしまうだろう。  物事はすべて消え、無くなり、死ぬものだ。  そうでなければ過去と未来の境界が曖昧になってしまう。ものごとは戻らないものだからこそ、無くさないようにと大事にするんだ。  ……そもそも、どうして無くなるぐらいでそれを永遠でないと言うんだろう。  消えてしまっても、忘れ去ってしまっても、物の存在は変わらない。変わるのはそれを受けとめる私達自身の心の有様にすぎない。  私は、言ってやるべきだった。  だから───忘却に永遠を求める事なんて意味がないと。  忘れ去られるモノは当然のように忘れ去られて、もうそれ以上歪む事なく眠りにつく。忘却するという行為そのものが、永遠を定義できる一つの方法なんだ。  かつて私の中にいた織という少年が、あの日々を私から忘却した理由が、今ならわかる。  彼は本当に大切な思い出を、今を生きていく私自身の心に変えられないように、大切に眠らせてくれたのだ。  たとえ思い出せなくても、それが有った事だけは変わらないから。  ……あの魔術師はその事を知っていたはずなのに、それを答えと認められなかった。自己がない彼は、確かなモノがないからこそ、言葉という死なないモノで永遠を欲しがったのか。  ────なんて、酬われない。  言葉にできる永遠なんて、それこそ何の価値もないっていうのに。 … ◇  一月七日になって、私は堅苦しい礼園の制服から解放された。  鮮花をまだ学園内に残したまま、私こと両儀式は礼園女学院の校門をくぐり抜けていた。  予定されていた転入手続きを反ほ古ごにするのに一日かかってしまったけれど、事件そのものは解決したので学園側にも文句はなかったはずだ。  秋アキ隆タカに送らせた藍色の紬つむぎを着て、その上から革のジャンパーを羽織って、私は悠々とこの森と校舎の世界から外に出る。  すると、そこには見知った顔が私を待ち受けていた。 「……このひま人。何してるんだ、こんなところで」 「あのね。僕だっていつもいつも暇じゃないぞ。……うん、暇じゃないけど、今日はたまたま暇だったんだ」  だから仕方ないだろ、と幹也は肩をすくめた。その仕草に安あん堵どを覚えながら、私はちりちりとした悪寒を感じて、首を横に振った。  ……本当は、しばらく幹也には会いたくなかった。  思い出してしまった記憶の断片が、私の中の不安を少しずつ大きくしていくから。  それでも今はその怖れより、こいつの呆ぼうとした姿のほうがほしかったみたいだ。 「……そっか。なら暇つぶしに付き合ってやるよ。ちょうどつまらないお伽とぎ話ばなしを聞いたばかりでさ、おまえにも聞かせてやる」  言って、私は歩きだす。  幹也は素直じゃないな、なんて暴言を吐いて私の顔を覗き込んだ。  玄霧皐月と黄路美沙夜の話が終わる頃、私と幹也は自分達の住んでいる町を通り過ぎていた。  歩きながら話しているうちに、なんとなくお互いの部屋を通り越してしまったのだ。  私たちは暗黙の了解でトウコの事務所を目指す形になっていた。 「……でもさ。なんだって一年四組の事件だけが表立ったんだろうな。鮮花の話じゃ玄霧皐月は生徒全員の記憶を採集していたって話じゃないか」  最後まで残った疑問を口にすると、幹也は難しい顔つきで頷いた。 「それは黄路美沙夜の願いが一年四組の生徒への報復だったからだろうね。忘却した記憶を手紙にして返していたのは、美沙夜がそれを望んだからだよ。だから他の生徒は忘却を採集されただけで終わっていたんだ」 「ばかにすんな、それぐらいオレだって解ってる。要は、どうして黄路美沙夜の願いだけが事件を起こしたかってコトだろ」 「そうだね。……きっと、黄路美沙夜だけは特別だったんだ。他の生徒はさ、その願いそのものを玄霧皐月にカタチにしてもらっていたワケだろ。けど、黄路美沙夜は違うじゃないか。彼女の願望は、彼女自身の手によって実行されようとしていた。……この違いは、大きいと思う」  ……そうか。言われてみればその通りだ。  玄霧皐月は、自らを鏡と言っておきながら黄路美沙夜に対してだけは鏡ではなかったんだ。 「だけど、どうして?」  幹也は答えない。  私達はしばらく無言のまま、冬の冷たい空気の中を歩いていた。  長い沈黙と思案のあと。  幹也は、悼いたむように私を見た。 「式。玄霧皐月にはね、本当に妹がいたんだ」  彼はそれ以上は言葉にしなかった。  ……理由は、それだけで十分だったのかもしれない。彼女が彼の本当の妹であっても、仮に、そうでなかったとしても。今となっては、真実を知るのは玄霧皐月だけだろう。……そしてその皐月自身でさえ、それを確認する手段がない。  真実は永遠に闇の中だ。───なんて皮肉だろう。こんな所にも永遠がある。 「……おかしな話。可哀相だね、玄霧は」  本当にそう思って、私は呟いていた。  自己が無いあの魔術師は、ほんの数ヵ月前の私にひどく似ていたから。  ……けれど。私のそんな感傷に、幹也は意外そうに目を見開いていた。 「驚いたな。式はしてやられたっていうのに、彼の肩を持つのかい?」 「肩を持つわけじゃないよ。ただ憎んでいないだけだ」  そう、憎んでいない。  憎めるはずがない。  それは、だって──── 「あいつ、幹也に似ていたからな」 「え?」 「幹也の名字は黒くろい桐きりじゃないか。あいつだって玄くろい霧きりだ」  そんなつまらない返答を、私はしていた。  幹也は傍らで苦笑する。 「なるほど。とんちが利きいてるね、それは」  私の言葉を全部冗談ととったのだろう、幹也は無邪気に笑っていた。  ……けど、それにしてもとんちが利いてるはないと思う。 「そりゃあ死語だよ、幹也」  横目で幹也を眺めながら、私は呆れてそう告げる。 「────あ」  そこである事に気がついて、私は小さく笑ってしまった。 「あれ、どうかした?」 「いや。オレに殺せなかったものを、おまえは今殺したんだなって」  私の返答に幹也は首をかしげて考え込んでしまう。  それも当然か。こんな独り言、幹也にとっては突拍子もない言葉だっただろうから。 「なんでもないよ。意味のない独り言だから忘れろ。こんなの、当たり前の事なんだから」  ……そう、現代では言葉でさえ死んでしまう。  普遍性を無くした言葉は、その意味を剝奪されてただの発音になりさがってしまう。……ちょうど、幼年期に置き去りにされたまま成長してしまった、あの魔術師のように。 「なんだよそれ。悪いけど僕は式みたいに物騒な性格してないぞ。誰かを殴った事だってないんだから、殺すなんてコトはあるはずないだろ。……ああ、ないよな。うん、きっとないと思うけど───」  器用なことに、幹也は自分自身の台詞でさらに深く考え込んでしまった。  こいつのコトだから、自分で気がつかずに誰かを傷つけたコトなんかを反省しているのだろう。  ……そうゆうトコ、ほんと、ばかみたい。  けど、私はそういうこいつを見ていたい気分だった。その理由を追及する事はよしておいて、口元に笑みをうかべたまま、両儀式は歩き続ける事にした。  夕暮れは落ちて、空には星が瞬またたきはじめる。  凍えた月を頭上にする頃。  気がつけば、私たちはトウコの事務所さえ通り越して見知らぬ道を歩いていた。  顔を見合わせて、お互いの不注意さにため息をつく。  馬鹿みたいだと幹也は言うけれど、私はわりと嬉しかった。  理由は、まあ、なんとなく分かっている。  なぜって、これが私にとって、誰かとした初めての夜の散歩だったのだから─── /Oblivion Recorder・End